『光る君へ』第11回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

回が進むにつれて、生き生きとしてきた登場人物と、それほどでもない登場人物とがくっきりと分かれてきたように見える。もちろん主要な役柄を演じる者と、目立たない役柄を演じる者とは自ずから違って当たり前なのだが、それぞれにその時をその場所で生きている人間なのだから、いい加減な台詞や所作をするような描き方はドラマの展開に水を差しかねない。仲代達矢が黒澤明の映画に初めて出たのは通りすがりの侍(=通行人)の役だったが、何度歩いてもOKが出なかったと話されていました。どのような人であろうと自らの人生を背負って生きているのに変わりがないと言うことだ。

 

 

NHKの「ドキュメント72時間」という番組をよく見るが、通りすがりの人へのわずか1、2分のインタビューだけで、その人の人生が垣間見られて驚くことがしばしばある。年齢、家族関係、職場関係、そしてこの時間になぜここに来たのか、などを聞いた受け答えの所作だけでその人の人生の歩み、行く末、重み、人間関係などが一瞬のうちに浮かび上がって、興味深い短編小説を読みはじめた気になる。

 

 

道長とその従者の百舌彦がまひろの家の塀越しに様子をうかがっているときに、出かけようとしたまひろの従者乙丸が道長に「若君いい加減にしてください」と言ったが、私には理解できない物言いだった。言葉が完全に浮いていた。それまでの乙丸の描き方が雑すぎたのだ。百舌彦もまた気の抜けた言葉で応酬していたが、この二人がいつも生きていない。金魚の糞のようにそれぞれの主人にただくっついているだけの描き方だからだ。

 

乙丸が見るからに軽そうな枯れ枝の荷物を背負って帰ってきたときの描写は、疲れたという感じを出そうとしたのかもしれないが、いかにも重い荷物を持っているような所作をしていたのには白けた。どうすればこのような演出となるのだろう。ドラマとしての重み、緊張感が失われてしまう瞬間だ。

 

今回の冒頭の、官職を失った為時家の使用人が辞めていく場面も、使用人たちとまひろたちとの人間関係が描かれていなかったので、何の感慨もわかなかった。使用人たちもどのような表情をしていいかわからなかったのではないか。倫子宅の女子会で常に軽い言葉を交わす二人の女がいるが、これなどもなんとかならないかと思う。まひろを際立てさせようとする意図なのかもしれないが、レベルが低すぎて紫式部のレベルも落ちてしまう気になる。切磋琢磨した中でまひろが抜きん出るような描き方ができないものか。いつ見てもこの女子会で交わされる会話には興醒めする。

 

 

ドラマの展開の方は、兼家役の段田安則がここへ来て一段と脂がのってきた演技で見応えがあった。道長役の柄本佑もまた、生首が置かれた高御座での咄嗟の対応、まひろとの逢瀬での激高、父兼家に対面したときの表情など、それぞれ巧みな演技に思わず目を瞠ってしまう。今回はなかったが、姉詮子と対面するときは頼りにされる弟として、その時その場面で顔の造作はそんなに変化してもいないのに、しっかりとその場面にあった表情となっていることに感心する。

 

このころ、まひろはまだ15、6歳くらいだ。しかし、父の官職を得ようと倫子や摂政兼家を訪ねる行動力は、紫式部を控え目な性格だとする俗説を払拭する試みとしては面白いエピソードだった。宣孝からは婿をとれと言われて、こんな家に来る男はいないと消極的に言う一方で、妾にするという道長には北の方でないと耐えられないと言うまひろ、自らの身と心のあり様をしっかりと見据えた若き紫式部らしい姿だと感じた。そのように気が強くて学識豊かな紫式部に宣孝は惚れたのだと私は思っている。

 

さて、宣孝がまひろに婿をとれ、と言ったのには笑った。佐々木蔵之介が宣孝にキャスティングされたときはぴったりかと思ったが、脚本と演出はそのよさを無視した方向で宣孝を描こうとしているように見える。紫式部は自伝とも言える『紫式部集』に宣孝との交流、思い出の歌をたくさん入れている。『紫式部日記』にも、亡くなった夫宣孝が遺した漢籍を懐かしそうに手にとるなど紫式部自身の心情を吐露する記述もある。『枕草子』には御嶽詣をする宣孝を、自己主張の強い変人振りを清少納言が興味深く記している。宣孝をけなそうとした文面ではなく、明らかに好感をもったからこその文章だ。

 

宣孝は漢籍にも通じ、官人としては有能で、舞などの芸も達者な人物だった。父と共に越前に下向した紫式部に宋人を見にそちらへ行くと便りしたほどに好奇心の強い男でもあった。現代に生きていたならば、自ら起業した大企業の教養ある創業者として活躍したのではないか。決して金や地位だけを大事とする俗物ではなかった。紫式部とは漢籍に関して為時と違った見解を示して、宣孝は紫式部からリスペクトされていたと勝手に思っている。紫式部がいくつか夜離れの和歌を遺しているように見えるが、それは仕事人だった宣孝が頼まれ事も多くて忙し過ぎたからだと私は思っている。今のドラマの流れから行くと、そのような深みのある男として宣孝は描かれそうにない。これから紫式部と宣孝の絡みは増えてくるはずなので、『紫式部集』に描かれた宣孝像を無視するのだけは避けてほしいと願っている。

 

 

今回は藤原伊周が初登場した。演じた三浦翔平を全く知らないが、伊周にぴったりの雰囲気を感じた。どのように描かれるのだろうか。若さが強調されて、危うい感じを思わせた描き方だった。男らしい男は、どうやら道長しかいないドラマとなりそうだ。幼い定子が登場したが表情に乏しかった。高畑充希に引き継ぐのにふさわしいような演出を工夫してほしかった。

 

それに引き換え、即位する一条天皇を演じた高木波瑠は「はい」という返事をするだけだったが、目力があっていい表情をしていた。一条天皇役の塩野瑛久を全く知らないが、高木波瑠をしっかりと引き継いでもらいたい。

 

高御座の生首事件は道長の果敢な処理で事なきを得た描き方だったが、『大鏡』では兼家が寝たふりをしてその報告を一切無視したと記されている。穢れを最も嫌う時代の最も穢れがあってはいけない場所での不祥事を完全無視した兼家の行状を道長にすり替えたわけだが、柄本佑はうまく演じていた。兄道隆は受領の出で、宮仕えもしていた高階貴子を正妻にしているのに、道長はまひろを正妻にするつもりが一切ないと告げた。「勝手なことばかり言うな」との捨て台詞まで残した。妾としてそばにおきたい、といきなり言うのには驚いた。正妻にするという道長を押しとどめて、妾でよいとまひろが言うのならわかるが(宣孝と結婚した紫式部は妾としてだったのに)。権力志向を持ち始めた道長を示す意図があったということか(それはまひろが求めたことではあるが)。もし妾でもよいとまひろが認めたら、宣孝との結婚がなくなってしまい、いくらなんでもこの史実は曲げられないと思ってそれだけは避けようとしたのだろうか。さて、それでは、最後の場面で道長は父兼家には何を話そうとするのか。駄目だと言われるのを承知で、まひろを北の方にしたいと言うか。倫子に婿入りすると言うのか。

 

道長の北の方になる倫子の今回は、父の復職を願うまひろの頼みをきっぱりと断り、貴族社会の政治的な動向をよく理解している大人の雰囲気を醸し出していた。その一方で、思い人がいることもまひろに打ち明けていた。道長と結婚した倫子は道長の願い通りにたくさんの子どもを産み、長女彰子は一条天皇の子を産むことになる。そのために紫式部が宮仕えをして成果を上げたと言うことだ。物語作者がそれほど高い評価を得られなかった時代とは言え、紫式部は才女として道長からも貴族社会からも当然評価されたはずだ。ましてやドラマでは道長の思い人は紫式部だ。今回の黒木華演じる倫子を見ていたら、吉高由里子演じる紫式部との「鞘当て」が俄然楽しみとなってきた。

 

ここまでは、致命的な史実との乖離や端役の登場人物の描き方に大雑把なところはあるが、ドラマを面白く見せようとする努力は伝わってくる。始まってまもないところだ。紫式部はまだ越前に行ってもいないし、結婚もしていないし、宮仕えはまだまだだ。ドラマはこれからだ。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→4点)2.構成・演出=的確か(10→4点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→5.82点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→4点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→7点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→7点)7.共感・感動=伝える力(10→3点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→5点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→5点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→3点)

合計点(100-47.82点)

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く。

 

「人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ。天下の人の、品高きやと、問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのことも、おぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむおほかりける」というのは右大将道綱の母が『蜻蛉日記』を書くに際してその意図を記した文章だ。

 

「私のような特別な境遇の人間が日記を書けば、それはきっと珍しく興味深いものになるだろう。世間の人々は、高貴な身分の人の生活がどのようなものか興味を持っているだろうから、私の日記はそうした好奇心を満たす一例となるかもしれない。ただ、過ぎ去った日々のことははっきりと覚えていないので、書けることには限りがあるけれども」(Bing翻訳)

 

それまでにこのような趣旨で「本」を書いた人は世界中にいなかった。驚くべき感性の持ち主だ。この女性を大河ドラマ『光る君へ』では、できの悪い息子の出世をひたすら願う平凡な女性として描いている。兼家もまた、権力欲だけにとらわれた俗物として描いている。NHKのスタッフと大石静は『蜻蛉日記』を読んでいないのだろうか。このことは寧子が登場する度に思うし、書いてしまう。残念だ。

 

再来年度の大河ドラマが『豊臣兄弟』に決まった。秀吉の弟秀長が主人公だ。この兄弟の絆をテーマにサクセスストーリーを令和の時代に蘇らせるというキャッチフレーズだ。緒形拳が主役の『太閤記』は家族揃って一つのテレビで視聴した。西田敏行はどのようにして見たのか、ねね役の佐久間良子が主人公だったのはおぼろげに覚えている。竹中直人も見た覚えがある。いつしか権力者となった秀吉に共感することがなくなった。何よりも覇権争いをする時代をドラマで見るのが嫌になった。

 

 

来年度の大河ドラマは『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で18世紀半ばの江戸時代に喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎などの才能を見出した蔦重を主人公にした話だ。世界でも類のない町人文化が花開いた江戸を舞台にしたドラマなので楽しめそうだと思っていた矢先だったのに、どうしても権力者志向のドラマをやりたい人、見たい人が多いのだろう。好みの問題なので嫌なら見なければいいのだが・・・。『光る君へ』も権力者道長讃歌を高らかに歌い上げるドラマになっていくのだろう。紫式部が世界文学として今も色褪せない『源氏物語』作者としてふさわしく描かれるか、今はそれを見届けようと思っている。