『光る君へ』第10回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

今回は、正攻法に徹した演出に気迫が伴って見えたので見応えがあった。野球で言えば始まって間もない二回の裏で、旗色が悪くなる嫌な感じがし出したときに、下位打線がワンチャンスを何がなんでもものにしようとする反撃ののろしをあげたようなインパクトがあった。花山天皇が隠密裡に出家して譲位したことを描いたのだが、それは謀略だったと『大鏡』などの歴史書に明記された大事件だった。どのように描くのか、そんなに構えて待っていたわけではないが、手際のよいうまい演出だと思った。

 

 

緊迫感が半端でなかった。兼家の策略は野心剥き出しで用意周到だった。真夜中に実行された危うかったかもしれないクーデターだったのだと思い直した。万が一の時は、道長に一族の行く末を託した兼家の思惑は細心さも持ち合わせていて、歴史の証人になった錯覚さえ覚えさせるほどの臨場感があった。段田安則がここまで周りの者を張り詰めさせた演技をするとは思っていなかった。それにしても負け犬となった藤原義懐を最後までいい加減な男のように描いたが、そこにはどのような意図があったのだろう。描き方に不快さが残った。

 

このような歴史的な重大事が起ころうとしているときに、道長がまひろと駆け落ちしようとする状況を並行させた演出も見事だった。例の荒ら屋での逢瀬もまた緊張感に包まれて、どうするのかと我知らず息を呑んでしまった。その前段階での和歌と漢詩のやり取りには感心してしまった。このドラマを見ていて初めての体験だった。

 

 

道長の古今和歌集とまひろの陶淵明の漢詩の贈答歌のやりとりをを、道長から相談された行成が、「和歌は人の心を、見るもの聞くものに託して言葉で表しています」「漢詩は志を言葉に託している」と明快に解説したのには、絶妙でこれ以上にない説得力があった。今までの経過から言って、若い行成からこんなすてきな台詞が飛び出すとは思わなかった。百人一首でお馴染みの清少納言の「夜をこめて鳥のそらねははかるとも・・・」の歌の相手は行成だ。中国の故事を歌にしたもので、逢瀬をかけた逢坂の関は許さじ、と清少納言が行成に啖呵を切った枕草子に記されたエピソードをこのドラマでは描かれるのだろうか。まだ若い行成を見ていると清少納言に完全に圧倒されそうだ。

 

一方で、荒ら屋での逢瀬はなんとかならないかとは思った。行き倒れたホームレスが貴族の屋敷近くにもいて、決して治安がよいとは思われない京の街中の廃屋に、夜中に一人でまひろが行くという設定にはついて行けない。せっかくのお膳立てが台無しではないか。破れた天井から月の光が降り注ぐ「ベッドシーン」にしても、私には現実無視の勘違いに思える。とはいえ、この逢瀬の場面は文句なしに美しかった。

 

それでもこの場面は平安時代の貴族らしく、父親が不在のまひろの家に道長が忍んでくればよかったのではないか。駆け落ちしようと思っていた道長だからゆえの設定だったのかもしれないが、あまりにも性急すぎた。そこを紫式部が道長の進むべき道をしっかりと説いたのは、彼女の性格がよく出ていた。決して情に流されないところだ。彼女の和歌で情に流された歌を見たことがない。それは『源氏物語』でも共通で、考え方が一貫して緻密で、記された一つ一つの言葉が他の言葉と繋がっていて無駄がない。すべての言葉が意味づけられている。書き言葉の文章となる模範がそれほどなかった時代に、ひらがなを主体とした物語をよくも書き紡いだものだと思う。

 

そして、父為時が身寄りがなく病の床に伏せている女を介護している場面で、まひろが一目見て一切を了解し、自らの役割をしっかりと父に伝えたところもまた、『源氏物語』の著者を念頭にした演出だと思った。

 

 

逢瀬の最後の場面で、涙を流すまひろに道長が「振ったのはお前だぞ」と言い、「人は幸せでも、・・悲しくても泣く」とまひろが答えたが、ここでもまひろは情に流されない。いい場面だなとは思ったが、開けっぴろげの室内を誰かに見られていないか気になって、いくら旧暦の六月、夏の夜とはいえ、これはないなと集中できずにくり返し思った。

 

駆け落ちを拒否したまひろが道長に「偉い人になって、よりよき政をする使命がある・・・  己の使命を果たしてください」と言ったが、偉い人になった道長がどのようなことをするのか、その時のために、この言葉は刻んでおきたい。

 

東宮懐仁親王がいよいよ即位することになった。夫円融には父兼家のために疎まれた詮子にとっては、誰よりも特別な瞬間だった。彼女の自尊心を満足させてくれるのは懐仁親王=一条天皇の存在があってこそで、彼女の動向がこれからますます際立ってくるのが予想される。このように描かれることで彼女の存在感を見直すことになった。吉田羊の演技も手探り感があって、ぴったりだと思った。しかし、父兼家に似ていると何度も自覚して口にするのは、兼家と道隆、道兼が亡くなった後で、定子一族を没落させる企てのすべてを詮子が主導する未来を予見してのことのように聞こえた。道長が何一つ悪いことをしないドラマにするためには、詮子が悪女にならなければならない。吉田羊はそこまで見据えて演技をしているように見えた。

 

 

そして花山天皇がだまされて出家し譲位することになった場面は本郷奏多の等身大の演技もあって、歴史に立ち会っているような厳粛な気持になった。してやったりの道兼の玉置玲央も渾身の演技で今までの苦労が実ったな、と声をかけたいほどだった。実際にあった話だというのがすごいし、この大河ドラマの序盤のやまをうまくまとめたと思った。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→6点)2.構成・演出=的確か(10→6点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→6点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→6点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→7点)7.共感・感動=伝える力(10→6点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→5点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→6点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→6点)

合計点(100-60点)

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く。

 

道長が古今和歌集から選んだ和歌をまひろに贈り、それに応えたまひろが漢詩で返した。なぜ漢詩にしたのか、と思ったが、行成の説明で私なりに納得できた。すばらしい着想だと思った。

 

一度見ただけでは何のことかわからず、何度も繰り返し見たがよくわからなかった。山本淳子教授がステラネットに掲載されているのを見てようやく理解できた。まひろが最初に返した陶淵明の漢詩が印象に残った。「既自以心為形役既に自ら心を以て形の役と為す)・・・」という詩句だ。「今まで自分で心を身の奴隷にしてきた・・・」と教授は訳されている。後年紫式部が自らの家集に「数ならぬ 心に身をば まかせねど  身にしたがふは 心なりけり」を載せています。夫を亡くして不本意な宮仕えをしているときの歌です。今回の歌の贈答のエピソードに、山本淳子教授が関わっているのか、と紫式部が詠んだ歌を思い出しながら思った。

 

 

今回のこの「古今和歌集」と漢詩の贈答は、和歌が発祥確立していく時代を象徴しているように思った。古代日本に漢字が伝来して、当時の日本人はこの文字を前にして、中国語を理解しようと懸命となったに違いない。しかし自分たちの言葉をこの文字で表すことができるのか、四苦八苦したことだろう。漢字を訓読みにした痕跡が『古事記』や『万葉集』に残っている。当時の人が使っていた言葉を漢字で表すのは実にむずかしかったであろうことは想像以上のものがあったに違いない。

 

 

当時の日本人にとっては、表意文字の漢字を使った漢詩では、思い=心が表現できなかった。だからこそ漢字の音を頼りに万葉仮名を作ろうとしたのだが、その過程では後世の人が解読に難儀した「詩」もたくさん詠まれたわけだ。そして平安時代に入って900年前後には、当時の人の話し言葉に対応したひらがなが完成した。その結実として『古今和歌集』が編纂されたということだろう。『万葉集』と『古今和歌集』とは詩の性格が違っていて、『万葉集』の詩は未だ和歌ではないと言う学者がいる。そうなのだろうと自らしっかりと説明できないながらも私も思う。『万葉集』の詩はもちろん一様ではないが、漢詩と和歌の間にあると断言されている学者がいる。漢詩は中国語の詩だ。

 

だから和歌と漢詩は同じ韻文だと言っても、根本的に違うということを今回はわかり易く示した。日本文化=国風文化の根源となる日本語の草創期というものに注目させてくれた描き方となっていて、ドラマの中ではじめて平安時代の文化らしい文化にふれる展開だったように思う。