『光る君へ』第9回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

NHK大河ドラマ『光る君へ』の時代考証をされている倉本一宏教授は「『ドラマはドラマ、史実は史実』という姿勢で、両方楽しんでいただきたい」と語られている。その一方で、ドラマがあまりにも史実と逸脱したり、史実として定着している人物像とかけ離れた描き方をされることに懸念もされている。今回はそういう心配でなく、ドラマそのものの描き方にかつてない戸惑いを覚えた。まもなく一条天皇の即位、その時代の大河ドラマを切望していたので、ドラマの評判が大いに高まって、『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』を読もうとする人が増えればいいなと単純に思っているので、今の思いが杞憂であればと思っている。

 

捕まったまひろを助けた後の、道長とまひろとの会話が不自然だと思った。まひろが道長に盗賊を許しておけばよかった、というようなことを言ったが、これはあり得ないことだ。貴族の館を襲う賊を許せるわけがない、当時の貴族たちにとっては当たり前の処置だ。当時の事を書いた本を読んでいると、内裏をはじめ貴族たちの館が放火されたり襲われたりすることが枚挙に暇がないほどだ。放火して混乱に乗じて物を盗む賊に対して、貴族たちは戦々恐々としていたらしい。捕まえた盗賊を許すなんてあり得ないと思うのだが、まひろがそうした社会状況に疎かったということを示そうとした演出なのだろうか。

 

 

捕まった義賊たちの無事を祈る貧民たちの集まりを描いていたが、上っ面をなでているような感がして、伝わってくるものがない。紫式部の家を辞めた使用人たちがいたが、そうした元使用人たちとの交流の中で貧民たちの苦境を知り、散楽のメンバーとも知り合いになったというような描き方なら、貧民たちの思いに切実感も伝わったのではないか、とあれこれと筋書を変えたい思いが自然とわいてくるのはなぜだろう。 

 

 

花山天皇の信頼を得つつある道兼、父兼家との不和を演出したのは他ならない兼家の差し金だということが明らかになった。それにしても折檻殴打というのはあまりにも稚拙な演出だと思われてならない。安倍清明から得た策略とは言え、兼家の突然の張り切りようは段田安則の渾身の演技もあって迫力があった。見栄えのする演出だった。右大臣家が飛躍する前途を象徴していて、実際に兼家はそういう瞬間を持ったのではないかと思わせた。

 

実資と妻とのやり取りは二番煎じではあったが面白かった。秋山竜次は毎回登場する度にいい味を出している。そこにいるだけで存在感があるし、人を諫めるのも、愚痴を言い続けるのも様になっている。妻の桐子役の中島亜梨沙は前回より切れ味に欠けていた。酒をつぐ場面で、桐子が席を立って注ぎに動いたのがまずかった。使用人の侍女を侍らせておいて注がせるべきだった。桐子にはでんと構えさせての上から目線で「日記、日記、・・・」と畳みかけて言わたら、と思った。

 

そして、直秀があっけなく殺されてしまったのには、それはないだろう、という思いで困った。スタッフの方は一生懸命だと思うが、勝手ながらひどい演出だと思ってしまった。散楽メンバーをたった一人、先頭で引率しているのを見て、これはなんだ、と思っている内にみんな殺されてしまっていた。殺される場面は見たくはないが、何度見ても引率者は一人だったし、それでこんなことができるのだろうか、と思っても仕方ないことをいつまでも思っていた。散楽メンバーは両手を前で縛られているだけで、普通に歩いていた。後ろ手に縛られているならわかるが、あり得ない設定だと思った。

 

そして、まひろと道長が素手で埋葬するための穴を掘り出したのにもびっくりした。砂浜の砂地ではない。樹木が生い茂っている森の中の地面だ。簡単に掘れるとは思えない。ドラマの設定はいくら完璧にしても突っ込みどころは出てくるものだが、あまりにも酷いのではないか。この場面ではまひろと道長に感情移入して、直秀はじめ死んだ者たちを悼む場面なのだ。カラスに啄ませないために一心不乱夢中だったと言うことか。

 

 

筋書きと結果だけがあって、生身の人間の動きが感じられない演出だ。これでは直秀が可哀想すぎる。吉高由里子と柄本佑は軟らかい土だったので、こういうこともありかと思ったのだろうか。ドラマはフィクションの世界なので、リアルさを求める必要は全くないが、要は登場人物が生き生きとしているかどうかなのだ。

 

大体、海千山千の散楽のメンバー全員が一網打尽で捕まる設定自体がおかしい。一歩譲って、直秀は仲間を助けようとして捕まったくらいの演出をしてほしかった。そして、殺されると知った顔ではなく、直秀の抵抗する姿を見たかった。まひろの母が殺されたときは、刀で刺し貫かれた残酷な場面だったので、直秀がそのように殺される場面は省いてもいいが、殺されるまでの直秀が仲間たちを助けようとする奮闘くらいは少し見せてほしかった。だから引率者は当然一人ではなく、多数だ。ドラマの感想でこんなことを述べなくてはならないのは残念なことだが、仕方がない。残念ながらそういうレベルのドラマになったように見えた。

 

最後にまひろの弟惟規がはじめて存在感のある演技をして見せた。史実では弟かどうかわからないらしく、私は兄ではないかと思うところがある。漢籍を父親から教わっている兄弟のそばで紫式部が聞き耳を立てるというのは、兄だったからこそかなと、兄より秀でていたからこそ父親は紫式部が男だったらと思ったのではないか、と今回はそんな余計なことまで思ってしまった。直秀のことがあって、まひろが「世を正します」と言ったのは、ドラマの流れとしてはもっともだと素直に受け取るべきだろうけれども、それにしても、紫式部が「世を正します」と言うのは似合わない。信じられない台詞だと思った。

 

 

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→3点)2.構成・演出=的確か(10→2点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→5.94点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→3点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→6点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→6点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→7点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→3点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→2点)

合計点(100-39.94点)

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く。

 

ドラマが終わった後で、散楽の解説があった。能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃などの大衆芸能の基だったということだ。どこの国でも大衆芸能というものがあった。日本では、昔は神社・お寺の境内や河原などの広場で、近世では芝居小屋などで見世物として大衆芸能はあった。それが今は、家にいながらテレビなどでドラマや歌などの娯楽を楽しんで見ている。

 

 

大衆芸能というと、映画監督の篠田正浩の著作『河原者ノススメ』を思う。少し長いが引用すると

「抗しがたい芸能の魔力が人を魅了する。芸能者たちは常民に差別されることで異形と化し、常民には果たせない霊力を備えていったのではないか。卑賎と談ずる言辞の背後に、常民には手の届かない「魔」の世界があり、その暗黒から「芸」の魅力が放射するさまを思わずにはいられない。芸能の本質は道徳や常識の埒外に存在することの証であって、河原乞食というコトバは、実は差別語ではなく、常民には決して手の届かぬ「畏怖」を放射する芸能者への羨望さえ混じる複雑な感情であり、そして観客には、河原者の存在全体を拒否する感情など入りこむ余地はなかったに違いない」

簡潔明瞭な文章だ。『心中天網島』『はなれ瞽女おりん』など、日本の大衆芸能をしっかりと見据えた監督で、文筆家としても無駄一つない文章で、しかも分かり易いので大好きだ。

 

ドラマでは毎回散楽が演じられた。大衆芸能としての散楽をずっと見せてくれるのかと思っていた。それにしては直秀以外の人物が表立って描かれないのをもどかしく思っていた。全員とは言わないまでも、直秀以外に2.3人くらいの人物描写をしてほしかった。そして直秀の心の奥底をじっくり見せてほしかった。全員死なせることはなかったのではないか、散楽は不滅だというところを見せてほしかった。