『光る君へ』第8回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

冒頭と最後の方でまひろと道長がそれぞれに物思いにふける場面があったが、吉高由里子と柄本佑と、二人ともが独自な存在感のあるたたずまいで好印象だった。この魅力的な二人を活かすも殺すも脚本と演出のでき次第だ、とあらためて思う。

 

 

「あの人への思いは断ち切れたのだから」とまひろが呟いていたが、呟かされたように思えた。そのようには、物語は転がっていないように思ったのだ。無理矢理転がせているような印象がして仕方ない。

 

左大臣家の女子会では赤染衛門がようやく存在感を見せていた。打毬での直秀にひかれたと言ったところだ。人妻なのに、と言われても揺るがず、「心の中は・・」、と応えたあたりは、才気ある人物像を彷彿させた。この女子会をもっと中身の濃い会話が飛び交うようにして、これからももっとなるほどと思わせてほしいものだ。

 

道長の弟として直秀が紹介されたようだが、かなり不自然な設定だと思った。たしかに、兼家が通った女はたくさんいたようだから、そのような弟がいてもおかしくはないが、道長以外に通用しない弟を作ってどうするのか、と思ったのだ。道長に弓で射られた直秀が邸の案内を請い、それに応じる道長、というのもまた、不自然すぎる話だ。なんとか転がろうとする話を止めてしまうような話だ。もっとなるほどと思わせるような筋書きや演出があるように思うのだが、なぜこんな流れになってしまうのだろう。

 

 

左大臣雅信と妻が結婚相手として道長はどうかと倫子に問いかけて、「満更でもない顔」をしていると言われて、否定しながらもまさにその通りの顔を黒木華はしっかりと演じていた。うまいものだ。倫子は道長よりも年長なのにたくさん子どもを産んで道長を助けるだけでなく、父親は皇孫の左大臣で財産もあり、それ故にプライドも高く道長の言いなりになるような女性ではなく、そのあたりをどのように演じていくのか、このドラマでは当然土御門第で紫式部とも日常的に接触することにもなるので楽しみなところだ。

 

花山天皇役の本郷奏多はすっかり役になりきっている。だからこの人が登場する場面は話がうまく転がっている。右大臣兼家が倒れてよろこび、忯子の霊が兼家に取り憑いて成仏できずにいると聞いて泣き伏し戸惑い、兼家が道兼を折檻していると聞いて道兼を慰めたりと、今回の展開をリードしていた。もちろん、これから起きる大きな出来事の前触れとしての最重要人物なのだから演出などにそれなりの工夫があるにしても、等身大の演技で見ていて気持がよい。

 

 

兼家の病状回復に祈祷と読経が繰り広げられたが、これからもこうした場面がいくつも設けられると思うが、そういう時代だったのだ。病の原因に霊が関係している、というのが常識だった時代だ。当時のことを書いた本を読んでいると、道長はそういうことを本当に信じていたようだ。紫式部は『源氏物語』に生霊、死霊を多く登場させてはいるが、『紫式部日記』などを読んでいると、どうも信じていなかったのではないか、という気がする。明晰で合理的な思考の持ち主だったからこそ、大作『源氏物語』を執筆できたのではないかと思うのだ。

 

道兼が病床にある父兼家に折檻されたことを為時に打ち明け同情を誘う場面は、ドラマの進行上必要と考えられたのだと思うが、もうひとひねりしてほしかった。道兼は幼児ではないのだ。今回は番組の途中で986年になっており、961年生れの道兼は25歳だ。あの状況で打たれるなんてことがあるのか、またあったとしても他人に腕を見せて、父に打たれたなんてことを言ってまわることがあり得るのだろうか。それにしても、自分が殺した女が為時の妻だったことも知らないなんてことがあるのか、突っ込みどころ満載だ。

 

これは花山天皇に信頼を得るための仕掛けだとしたら、そうだとしても手が込みすぎている。「招かれざる者」というタイトルをつけて、実際道兼を為時の家へ酒を飲みに行かせるという発想は誰が考えたのか知らないが無茶ぶりすぎる感がした。道兼は継子のように虐待され続けていた、一緒に酒を飲む相手もいない可哀想な男なんだという前置きまでしての酒席の場面には私も固まってしまった。話が全然転がっていない。吉高由里子は途方にくれた感じで湿りに湿った琵琶を弾くしかなかったし、為時も珍しく彼にはふさわしくない怒りの表情だった。

 

 

あえなく直秀が捕まったところで終わったが、その続きが見たいかと問われれば、見たくない思いだ。緊迫感がまったくない。捕まった直秀はたしかに人間的な魅力があるように見えるが、そのキャラクターが全く活かされていない。人物としての深みがあまり感じられないのだ。こういう境遇の人物も必要だというのは大いに理解できるのに、その上っ面しか描いていないので、仲間と散楽をしながら盗賊をして生きているのもやむを得ないな、というところを感じさせてくれないのだ。

 

父兼家が倒れた一方で、詮子がいよいよ本領を発揮してきた。一族の力を当てにしないと宣言して、自分の力でわが子を天皇にして権力を握ろうとする意欲を見せた。この時点でのこの言動は危うい感じはするものの、吉田羊は次世代をしっかりと見据えた強さを感じさせる演技だった。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→2点)2.構成・演出=的確か(10→4点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6.22点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→3点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→5点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→6点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→7点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→2点)

合計点(100-39.22点)

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く。

 

このドラマの筋書きを主導しているのが脚本の大石静か、NHK制作スタッフかはよくわからないが、これまでのところでは紫式部の生涯というよりも道長がどのようにして権力を握って行くのか、という方に焦点が向いているような気がしてならない。

 

紫式部の生涯に焦点を当てるならば、当然姉が描かれなくてはならないし、女友だちも描かれなくてはならない。兼家や花山天皇のあたりは時代背景として駆け足で描いて行くところではないかな、と思う。ましてや、幼児の頃に亡くなったと言われる母親は紫式部にとっては、光源氏や紫の上の身の上と同じなのだ。顔すらはっきりと覚えていない頃に亡くなったとされているのだ。

 

紫式部が生きた時代にあっては、貴族社会の権力闘争は当然描かれなくてはならない。それは一条天皇と定子が結婚したあたりから詳しくはじめても十分だったのではないか。花山天皇の本郷奏多の演技は特筆もので、確かにこれくらいのペースで見ていたい気はするが、これでは藤原伊周や隆家の登場はまだまだ先のことになるのだろう。大河ドラマだからと言ってしまえばそれまでだが、このままでは道長つながりでしか紫式部が描かれないのではないか。

 

一条天皇も定子もまだまだ幼いし、藤原伊周や隆家とやり合うのは道長だし、その前には道隆の時代がある。貴族たちの戦いを今のように丁寧に描いていては紫式部の活躍の場はいつ来るのだろうか。道長の活躍を見守るだけの紫式部になってしまうような気になってきた。