続きです黄色い花

 

 

 

 

 

もう1つ、最近思い出してはつくづく「だよな~」となることがあるんだけど

それは「幸福な王子」の話。←以前私が書いた物です

 

 

 

 

 

 

あの時母に「『幸福の王子』に出てくる王子様の様に

無償で人に優しくできる人になったらいいんじゃない?」

とにっこりと言われた時、

瞬間浮かんだものは

 

 

 

 

 

「母さんが私に求めてるのはツバメの方じゃない?」ってことだった。

 

 

 

 

 

 

でも「いくらなんでも親が子どもにそんなものは求めないよな…」

「そんな事思うなんて私は母さんの言う通り本当にいやらしい子だな…」

と自分の考えを否定してきたけど

 

 

 

 

 

今は、あの時の私の感覚は

とてもとても正しかったんだと思う事ができる

たとえ数年しか生きていない

世の中を何も知らない子どもの感覚だったとしても

私にとっては

「自分の命を守る為の本能からくる直感」だったんだと

受け入れることが出来るようになっている。

 

 

 

 

 

 

母に対しては今まで何度も何度も

「いいや。いくら何でも親が自分の子どもにそんな事を…」

と思う事は何度もあった

ずっと「まさかな…」と自分の考えを否定して生きて来たけど

あれは全部私にとって正しかった。

 

 

 

 

 

 

じゃどうして自分を信じなかったのかというと

「親がそんな人間だと知ってしまったら

物理的に生きていけない年齢だから」なわけで。

 

 

 

 

 

 

それはそれで「自分の命を守る選択」をしていたんだから

自分のことを「なんてバカだったんだ」と責める必要な

無いんだなと思えるようになってきた

 

 

 

 

 

そう思うと

いままでいろんな場面繰り広げてきた

みっともない自分や惨めな自分のあの反応も

「本当に嫌なこと」を認めるよりもましだったからこその

自分で選択した反応でもあったんだなと思えるようになってきて

 

 

 

 

 

で、その「本当に嫌なこと」とは何だったのかというと

「この世の中は私にとって生きていく価値が無い物だ」ってことで。

 

 

 

 

 

それを認めるのが嫌だった

認めてしまったら本当に私は自○してしまうかも

それしか無くなってしまう状況を避ける為には

自分が惨めになることで「世の中の人たちは私よりマシな存在」だと

考える方を選んできたんだなと思うんです。

 

 

 

 

黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花黄色い花

 

 

 

 

この「実は自分で選択している」というのは

臨床心理士の先生から何度も何度も言われて来たんだけど

8年過ぎてようやく染みてきた。

 

 

 

 

子どもの頃の私はただただ「生きていたい」と必死だったんだと

そう考えると惨めで大嫌いだった自分の事も

「愛おしい」と感じることが出来るかなと。

 

 

 

 

そして「この世は生きている価値のないものだ」

ということを認めないでいられるように

嫌な奴のことも「私よりマシな人間だ」と受け入れて

搾取されるばっかりの状況を選んできた自分を

認めることが出来るようになってきたということは

 

 

 

 

 

 

今は「この世の中、生きている価値も多少はあるかもね」

的な感覚に変わってきたという事なんじゃないかなと思う。

先生の心理教育のおかげだろうな。

 

 

 

 

 

 

…ちょっとまだ頭の中は言いたいことがいっぱいで

グルグルしているんだけど

一旦ここで終わります。