今年一番心に残ったニュースはチレの落盤事故からの鉱山労働者33人全員の奇跡的生還だった。

あの事故ですぐに思い出した歌がコロンビアに伝わるフォルクローレ『鉱山(やま)へはもう行かない A la mina no voy』だった。


雑誌「中南米音楽」誌(現「ラティーナ」誌の前身)の78年11月増刊号『フォルクローレ79』の中の「厳選!名曲ベスト100」(浜田滋郎選)には、この曲についてこう書かれている。
【コロンビアの海岸地帯に住む黒人たちのあいだで、非常に古く(十八世紀ともいう)から歌われていた民謡。メロディーからはむしろインディオ風な単調さも感じられる。プロテスト・ソングの祖形ともいえるだろう】

アルヘンティナの無伴奏コーラスグループ「オプス・クアトロ」のアルバムの中にこの曲が入っているので、歌詞カード掲載の訳詞を載せておく。70年代の訳詞(浜田滋郎訳)なので、今では物議を醸しそうな表現もあるが、そのままの形にしておく。


 ☆鉱山(やま)へはもう行かない

白人の住んでる家は
木づくりでバルコニーつき
黒人はワラの掘っ立て小屋
壁が一枚あるっきり
※たとえ主人に殺されても
おれは鉱山へは行かないぞ
おれは洞穴の中で
死にたくない
おれは洞穴の中で
死にたくない
(以下各節で※の部分を繰り返す)

ペドロだんなはおまえの主人
おまえを買ったんだ
ものは金で買えるけれど
人間はごめんだよ(※)

鉱山では黄金が
洞穴の底で光ってる
主人がみんな持っていき
黒んぼには苦しみをとっておく(※)

石はこびにくたびれて
鉱山から帰ってくると
家にいるのは神様にみすてられた
悲しそうなおれの黒んぼ女
それから空きっ腹のおれの黒んぼ坊主たち
どうしてこんなことが?とおれは尋ねたい(※)
②エディット・ピアフとビオレータ・パラは生きた時代がほぼ同じ。
ビオレータはエディットより2年遅く生まれ、エディットの死の4年後に逝った。

③声の質が似ている。ともに鼻にかかったような声で、若い頃は「ガラスを引っ掻いたような声」と酷評されたりした。

④貧しく悲惨な幼少期を過ごした。

⑤気性が激しく、わがままな一面もあった。

⑥ともに美貌や美しいスタイルには恵まれなかったが、そんなことで気後れするような性格では無かった。

⑦単なる歌手でなく自ら作品も残した。(エディットは作詞のみだが、ビオレータは作詞作曲ともに手がけた)



しかし、その一方でエディット・ピアフとビオレータ・パラとで際立って違う点もある。

エディットの場合、歌手としての名声を得るとともに姉妹とは不和になって行ったが、ビオレータの場合は名声を得た後も生涯に渡って貧しい生活が続いたせいもあっただろうが、兄弟姉妹とは至って仲が良かった。

『La Carta(手紙)』では「…(ストライキを支援したという“罪”で)手錠をかけられた一人(末弟のロベルト)のほかに私には9人の兄弟がいる。私の神の加護ゆえに9人は全員コムニスタなのさ…」とも歌っている。

そしてビオレータの死を悼んで兄のニカノールは『ビオレータを護って(ビオレータ賛歌)』という詩を書いている。

※『ビオレータを護って』はメルセデス・ソーサのアルバム『ビオレータ・パラに捧ぐ』に朗読が収められていた。これに曲を付けて歌っている人も居たが、生憎今名前が確認出来ない。
「南米のエディット・ピアフ」という形容は通常はメルセデス・ソーサに対してなされる。
70年代初めにメルセデス・ソーサが当時の西独で公演を行った際に、西独のある新聞記者が「エディット・ピアフ以来最高の民衆歌手」と書いたというのが由来らしい。

でも僕は「南米のエディット・ピアフ」の形容はビオレータ・パラの方がメルセデス・ソーサより百倍似合うと思う。


①「歌に生き恋に生き」はエディット・ピアフの生涯を端的に示す表現として知られているが、これはそのままビオレータ・パラにも当てはまる。
エディット・ピアフがイヴ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキらに恋をし、一流の歌手に育て上げては捨てられたのは良く知られているが、ビオレータ・パラも後にロス・ハイラスのケーナ奏者として活躍することになるスイス人の若者で自分の息子より若かったヒルベルト・ファブレ(愛称ルンルン)に恋をし、一流のケーナ奏者に育て上げたが、ルンルンに逃げられて遂には自ら命を断つに至った。
(二人の周囲に居た人たちの証言に拠れば、恋の破綻の原因はビオレータの激しい性格にあったようだ。ビオレータは恋をするといつもいつも恋人が側に居ることを求めた。片時も離れるのは嫌だった。これがルンルンには縛られているように感じられたようだ)