6月7日 母親大会記念日
1955年(昭和30年)のこの日、東京・豊島公会堂で2000人が参加して第1回母親大会が開催された。
1954年(昭和29年)、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ったことをきっかけに、日本婦人団体連合会は国際民主婦人連盟に原水爆禁止を提案し、世界母親大会がスイスで開かれることになった。
これに先立ち第1回日本母親大会が開催された。「嫁をもらう、娘を片付けるなどの言い方をやめ、結婚と言おう」「主人と呼ばず夫と呼ぼう」「女だてらに、という言い方はやめよう」などと申し合わせた。この大会によって母親たちの社会活動の意欲が高まったと言われている。
その後もこの日というわけではないが、毎年、「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」のスローガンの下に、生命と暮らし、子供と教育、平和、女性の地位向上などに関する分科会や講演会などが開催されている。
某サイトからの引用で、え~?と思ったので、珍しく全文載せてみました
(私が曲解で端折らないように)
きっかけも良いと思うし、女性蔑視的な風習(物言い)からの脱却も良い。
「母親の会」なので母親が勉強しよう!で続くのは仕方ないのかも?
でも、今後は「親の会」として父親・母親関係なく活動するように
変えていった方がいいと思うなぁ~
なんか、いつまでもいつまでも「育児は母親の責任」と言われている気がする。
さて、お題
あなたのおふくろの味は?
10年ほど絶縁したのちに亡くしているし、
それまでの間も、母が糖尿になってからは
「どうして自分が食べれないのに作らなくちゃならないのっ!!」
と切れて、あまり料理もしなくなったりしたので、
「おふくろの味」として印象に残っているものって、あまりないんですよ。
そこそこいろいろ作っていたように思いますが、
なぜか「私流」で調味料が違っていたりして、
「まずい」と思ったことはないのだけど、
(教えてくれるわけではないので)自分で調べて作った後で、
「え~?〇〇ってこんな味だったんだ・・Σ(・ω・ノ)ノ!」
とカルチャーショック受けることもしばしばでした。
ただ、知識をひけらかしたかったのか善意だったのかはわからないけど、
「食材と栄養、食事のバランス、塩分」なんかについては、
幼稚園のころから何かといわれて育ちました。
「キャベツはビタミンCが豊富」とか「緑黄色野菜も食べないとダメ」とか
おかしいことばかりで、「毒親」とか「ガチャ外れた」では済まないような人ではありましたが、ここのところだけはよかったと思うし、
私も子どもたちに「食べることは大切なこと」と言って育てました。
これとは真逆なのが旦那の親。
旦那は子どものころ体が弱くて、「精が強いもの」「体を冷やすもの」はたいていダメだったようで、今でも生ものとキュウリなどはダメなのですが、
ある程度の工夫や促しなどはなく、
「気に入らんかったら、味噌汁かけて食っとけ」
おかげで、私と暮らしだした頃の旦那の偏食はものすごく
「食べれるもの」を挙げる方が早いくらいでした。
「子ども達には食べさせるから」と「人の食べているものを嫌な表現しないで」
とこの二つだけ約束してもらい、
旦那が好んで食べるものは「それだけでもおいしく食べてもらおう」と試行錯誤し、
20数年かけて食べれるものも増やしてきました。
姑と関わっていた時期に、
「え~ヤドロクは〇〇食べたんやなぁ~」とびっくりすることも多く、
「おいしく食べてもらいたいから、ものすごーく観察して工夫しましたもの」
と返したら、「え~私には無理~」と笑われ、それを聞いた旦那が凹みまくったり。
実際に、姑は料理が好きではないらしく、「美味いと思ったものはない」とのことで、唯一「美味かったと思う」と言っていた肉団子を作ってもらったところ、
スプーンですくって揚げるのは良いとしても油を切らないのでギトギトで、タレもやたらと甘く・・・後に私が同じ料理?を作った時に、
「団子丸めているんやなあ~細かいなぁ~」とか言う始末。
そんなこんなで、良かれと思ってのことでしたが、
唯一の「思い出のおふくろの味」を台無しにしてしまって後悔しています。
姪の「おふくろの味」は「おばあちゃんの作るご飯」で、
本当のおふくろ(小姑)の味は、
「雪印のパックコーヒー」と「イ〇イのミートボール」
「ミートボールはうちの子も好きで弁当に入れるよ?」と返したら、
「晩飯のおかずにオイッコと2人で一袋やで。5個ずつ大事に大事に汁かけてご飯食べたわ。それでもあるだけましやってん」と帰ってきて泣けてしまいました。
別に、手作りでおいしいだけが「おふくろの味」ではないと思うけど、
「おふくろの味の思い出」は楽しいものであってほしい