ユニフォーム・コレクションの第2弾は、ジャイアンツの永久欠番第1号、黒沢俊夫さんのユニフォームです。
沢村さんの時には書きませんでしたが、ジャイアンツの永久欠番は同時に2つ誕生しました。
というわけで、第1号が2つあるということになります。
だから何?って感じでしょうが、文章を書く時にどうしたものかと思った、こちらの都合です
前回紹介した沢村栄治さんの時のユニフォームと同じく、5000勝記念の一環として、2007年当時のジャイアンツのユニフォームタイプで発売されたものです。
このユニフォームを所持されてる方は少ないのでは無いでしょうか?
他の永久欠番の選手に比べ、黒沢さんの知名度って、イマイチ低いんじゃないかなと思います。
後述しますが、図抜けた成績を残したわけでもありませんし、在籍期間わずか2年ちょっとと言う。
さて、5000勝記念ユニフォーム全般に言えるのですが、一桁の背番号が、実は二桁用の型で製作されているのです。
これを見たら、わかると思います。
沢村さんのユニフォームと、黒沢さんのユニフォームを重ねたものです。
薄くなってるのが沢村さんのユニフォームなのですが、黒沢さんのユニフォームと4番がピッタリ一致!
一桁の背番号は、二桁に比べて、約1.2倍の幅があります。(1.5倍だったっけかな?)
ジャイアンツにしては珍しくOB選手のユニフォームを販売したのに、画竜点睛を欠いてる所が、このシリーズの残念な所です。
黒沢俊夫さんの背番号が永久欠番になった経緯は、ちょっと変わっており、現役選手のまま病死した事で当時の選手達の希望で永久欠番になりました。
「巨人のユニフォームで葬って欲しい」という遺言があり、棺に納められる時にはジャイアンツのユニフォーム姿でした。
黒沢選手は、元々は名古屋金鯱軍の所属でした。
名古屋金鯱軍は名古屋と名前が付いてますが、現在の中日ドラゴンズとは別球団で、紆余曲折の末、戦中に解散しています。
黒沢選手がジャイアンツに移籍したのは、徴兵でジャイアンツの主力選手が戦争に駆り出されたためです。
ジャイアンツに移籍後は中心選手として活躍されました。
俊足の選手で通算ホームスチール数は歴代2位です。
また、一試合に二度のホームスチールをしたという、唯一の選手です。
通算8年のプロ生活ですが、ジャイアンツには2年ちょっと在籍(戦争での休止を省く)でした。
永久欠番に相応しい成績だったか?と言われると疑問が残りますが、永久欠番に定義があるわけではなく、球団が決める事ですので先述の事情から、永久欠番となったわけです。
ジャイアンツでは、一番影の薄い永久欠番では無いかと思います。
ジャイアンツの背番号4といえば、侍ジャイアンツを思い出される方もいらっしゃるのではないでしょうか?
「巨人の星」で星飛雄馬が16番を背負う時にドラマ性があったのと違い、黒沢さんの名前も一切出ずに、唐突に4番を背負うという荒業を見せています。
まぁ、その破天荒さが番場蛮らしいといえば、らしいですのですが。
ちなみに、侍ジャイアンツの後期OP「王者 侍ジャイアンツ」は、今でも応援で使われイニング後半で歌われ、ジャイアンツファンにはお馴染みの曲となってます。
(話が逸れましたね)
通算成績(打率:.259、打点:201、本塁打:7、盗塁:80)
うち、ジャイアンツ(打率:.255、打点:82、本塁打:3、盗塁:32)