杉良さん 鹿屋の地に立つ | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


報道によると5月15日、
俳優の杉良太郎さんが、海上自衛隊鹿屋基地 (鹿児島県) を訪れた。
警察庁の特殊詐欺撲滅運動と、厚生労働省の肝炎プロジェクト関係の講演を行うためだったが、
杉良さん (親しみと尊敬を込めてこう呼ばせていただく) は、
「皆さんの日々の訓練によって日本が支えられています。健康に留意し、家族を大事にしてほしいと思います」
と、約100人の隊員たちを激励したという。

※鹿屋基地での杉良さん (中央)
バックの機体はP1哨戒機
(スポーツ報知より)


杉良さんといえば、ライフワークともいえる災害ボランティアで有名だが、
この間も、能登半島地震の被災者の方たちに2度にわたって炊き出しを行ったばかりだ。

今年80歳だというのに全然年齢を感じさせない杉良さん。

そのフットワークと行動力には頭が下がる。


※2月に七尾市の避難所で炊き出し
行う杉良さんと奥様の伍代夏子さん
(婦人画報より)


杉良さんのボランティア精神は “筋金入り” と、皇后時代の美智子さま (現 上皇后陛下) からお言葉を賜ったほどだが、
一部の批判的な声をものともせず信念を貫く姿勢は、まさにボランティアの鉄人だ。
阪神・淡路大震災、東日本大震災、そして今回の能登半島地震の支援や、海外での支援活動などに、
私財数十億円を投じてきた杉良さんを、売名だの偽善だのと批判するのは的外れだろう。

本人も批判などまったく意に介していないようで、

「売名と言うなら言えばいい。売名で (東日本震災でやったように) カレー5万食作ってみろ」

と言って、粛々と支援活動を続けている。



今回、鹿屋基地を訪れた杉良さんは、
25歳の時、日活映画『花の特攻隊 あゝ戦友よ』(1970年公開) に主演した。
その舞台が、鹿屋にあった海軍航空隊の特攻基地だった。
杉良さんの役は、戦争で父も母も亡くした海軍航空隊のパイロットの青年。

恋人への想いも振り切り、神雷特別攻撃隊 (有人ロケット特攻機 “桜花” の部隊) の隊員として、

生還を期し得ない攻撃に向かうというストーリーだ。

※映画『花の特攻隊 あゝ戦友よ』ポスター

※映画の1シーン
 (恋人役は和泉雅子さん)

※映画のスチール写真
 (左端が杉良さん)


戦時中の鹿屋基地は、昭和20年に海軍の第五航空艦隊司令部が置かれ、
沖縄に来襲したアメリカ軍機動部隊への特攻作戦が始まってからは、908名の特攻隊員が出撃して戦死している。
この人数は、他の特攻基地に比べて、ずば抜けて多い数字だ。
ちなみに、陸軍航空隊の特攻基地 知覧 (ちらん) は439名である。
特攻全体の戦死者数は、海軍2531名、陸軍1417名、合計3948名となっている。
(公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会の調査による)
実に、特攻隊員全体の23パーセントが鹿屋から出撃して散華したことになる。

『花の特攻隊』のロケは鹿屋では行われなかったそうだが、鹿屋は杉良さんにとって思い入れのある土地となった。
役作りのため特攻隊員の遺書を読むうちに、特攻に行く夢を毎晩見たという杉良さん、
ようやく訪れることができた鹿屋で、航空基地史料館にも足を運んだ。
そこには、実際の特攻隊員の遺書や遺影などが展示されていて、

杉良さんは係員の説明に熱心に耳を傾けた。

そして、青空の下、特攻隊が飛び立っていった錦江湾の方角を見つめ、感慨深げだったという。


※鹿屋基地を見下ろす場所にある

特攻隊戦没者慰霊塔

(昭和33年 鹿屋市が建立したもの) 


※碑文には “今日もまた 黒潮おどる
海洋に とびたちゆきし 友はかえらず”
の歌が刻まれる

(以上、特攻隊戦没者慰霊顕彰会HPより)


現在の鹿屋基地の部隊は、東シナ海の哨戒などの任務のほか、被災地支援にも出動している。
そんな隊員たちを前に杉良さんは、
「人助けも戦いだ」と説いた。
私欲をすててボランティアに身を投じる杉良さんの生き方は、
祖国を護るために命を捧げた特攻隊員に通じるものがあるのかもしれない。

※鹿屋基地で講演する杉良さん
 (スポーツ報知より)


「人間として、やるべきことをやるだけ」

「お金がある人は寄付をすればいい。

お金がない人は (ボランティアに) 時間を出してあげたらいい。

お金も時間もないなら、活動をしている人を理解してあげてほしい」

それが、

社会貢献活動に対しての杉良さんのモットーだ。




【おことわり】
本ブログ記事は、スポーツ報知、サンスポ、家庭画報などの記事を参照させていただきました。