5月11日、世界各地でオーロラが観測され、日本でも北海道から東北、北陸、近畿など広い範囲で観測された。
それが、中にはうっすらと空が赤っぽくなったオーロラを肉眼で見た人もいるという。
日本国内においてオーロラは、これまでも条件が整えば北海道などで観測されたが、
これだけ広範にオーロラが見られたのは初めてではないだろうか・・・
と思いきや、そうでもないようだ。
これは当時、飛鳥 (奈良県) の地にあった都で目撃されたものだ。
その後も、赤気 (=オーロラ) は度々日本に現れた。
文献に登場するところでは、
鎌倉時代、藤原定家が書いた日記『明月記』にも、京の都で赤気を見たという記述がある。
仁和寺の僧も不吉だとして、高野山詣を中止している。
時代が下がって江戸時代の明和7年 (1770年) 7月28日に、またもや日本各地でオーロラが見られた。
その目撃談は、記録に残っているだけで松前藩 (北海道) から薩摩藩 (鹿児島県) まで全国におよんでいる。
国文学者の本居宣長も、当時住んでいた伊勢松阪 (三重県) でこれを目撃し、
同日の日記に “不思議な赤い光を見た” と書いている。
その時の様子を、京の東羽倉家 (伏見稲荷大社社家) の日記が克明に記録している。
該当部分を見てみよう。
【現代語訳】
“28日 晴れ。
今日夕方6時頃、北の空に赤気が現れた。
遠く若狭国 (現在の福井県嶺南地方) の方が炎のような色になっていると噂になっていたが、
午後10時を過ぎるとますます赤くなり、
紅色の雲が北側の空の半分を覆い銀河にせまり、赤気のなかに白気がまっすぐに立ち上り幾筋もあらわれ、その状態が午前0時頃まで続いた。
赤気はにわかに明るくなったり、色が薄くなったりして、空の半分が赤気に包まれた。
赤気の中には星が透けて見え、白気が一筋銀河を貫き、午前2時頃には落ち着いた。
(中略) 神社の人々は空を仰ぎ、いろいろ話し合ったが、昔から噂にも聞かない天変で恐ろしいとだけ言っていた。
午前4時頃、空は晴れて通常に戻った。(後略) ”
これと同じオーロラが記録されているのが、
京の僧 寿量庵秀尹が著した書物『星解』
で、詳細なスケッチも添えられている。
※注釈参照
秀尹は京でこれを見たことになる。
この時のオーロラは、たとえると旭日旗の上半分のような形状をしていたことがわかる。
これを見ると、日本書紀にある “雉の尾” の形という表現もうなずける。
『星解』には、同様の現象が寛永12年 (1635年) の夏と享保14年 (1730年) の冬にもあったことが記されている。
これら、江戸時代の日本にオーロラを出現させた太陽フレアも、かなり大規模なものだったと推測される。
さらにその後、世界的なオーロラ出現があった。
1859年9月1日、イギリスの天体学者リチャード・キャリントンが太陽を観測中、黒点の中に白色光フレアが発生しているのを発見した。
世界で初めて太陽フレアが観測された瞬間だった。
翌日から、観測史上最大級の磁気嵐 (“キャリントン・イベント” と呼ばれている) が地球を襲い、
ヨーロッパやアメリカの電信システムは通信不能となった。
電信用の鉄塔は火花を発し、電報用紙は自然発火した。
そして、やはりオーロラが世界各地で観測された。
アメリカ北東部では、その明かりで夜でも新聞が読めるほどだったという。
この時、日本は安政6年の8月6日 (和暦) にあたり、やはり各地で赤いオーロラが目撃された。
弘前 (青森県) の酒造業 金木屋又三郎は、夕焼けのように赤い空が一晩中続いた光景に、
“ロシアの方で火災が起きたのだろうか、宗谷や樺太で起こったのかもしれないと噂が広がった。
何が起きたのかまったくわからなかった”
と日記に書き記している。
同様の記録は、出羽平鹿 (山形県) や紀州 (和歌山県) にも残っており、
日本列島のあちこちでオーロラを観測できたとみられる。
当時の日本にはまだ電子通信システムがなかったので、磁気嵐の影響はなく、世の中に大きな混乱は起こらなかった。
人々を不気味がらせたオーロラは、明治以降も出現した。
しかし、西欧の進んだ文物が入ってくるようになり、
オーロラは科学的、天体学的に解釈されるようになる。
人々の迷信的な恐れはなくなり、“極光”という名を付けられたオーロラの研究は進んでいったのである。
【注釈】
1872年3月1日にフランスの天文学者で画家でもあるトルーヴェロが描いたオーロラの絵は『星解』の赤気の絵に酷似しており、
“星が透けて見える” という東羽倉家の日記の描写にも一致する。
このことは、出現時期は違うが、これらのオーロラが同じ特徴を持つタイプのものであったことを示している。