オーロラの日本史 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


5月11日、世界各地でオーロラが観測され、日本でも北海道から東北、北陸、近畿など広い範囲で観測された。


※デトロイト近郊のオーロラ
 (ANNニュースより)

※北海道で観測された赤いオーロラ
 (ウェザーニュースより) 



オーロラは、太陽が放出したプラズマ (電気を帯びた粒子) が大気圏に突入した時に起こる放電現象で、高度80〜600㎞の電離圏で発生する。
通常は南極・北極など高緯度地域で出現するが、
太陽フレア (太陽表面の爆発現象) でエネルギー放出が顕著になると大規模なオーロラが発生するので、緯度の低い地域でも見られる。
この場合、通信に影響を与える磁気嵐をともなう。
今回は、ここ20年余りで最も強力な太陽フレアが発生したことにより、
比較的低緯度の地域でもオーロラが現れたようである。


低緯度オーロラの特徴は、色が赤いこと。
オーロラの撮影に成功した人たちが、ネット上に赤いベールがかかったような夜空の写真を投稿していたが、

その多くは高感度撮影によって視認できるようになったもの。

それが、中にはうっすらと空が赤っぽくなったオーロラを肉眼で見た人もいるという。

私も深夜に窓を開けて北の空を見てみたが、
こちらの地域はくもりだったので、それらしきものは見つけられなかった。


日本国内においてオーロラは、これまでも条件が整えば北海道などで観測されたが、

これだけ広範にオーロラが見られたのは初めてではないだろうか・・・

と思いきや、そうでもないようだ。


古くから、日本でもオーロラが現れていたらしい。
らしいというのは、日本人がまだオーロラという現象を知らない時代の話で、
文献に残る当時の描写から推定するしかないからである。

最も古い記録は『日本書紀』にある。
推古天皇28年 (西暦620年) の記述に、
“天に赤気 (せっき) あり、その形は雉 (きじ) の尾に似たり”
とあり、この中の “赤気” というのがオーロラではないかとされている。

これは当時、飛鳥 (奈良県) の地にあった都で目撃されたものだ。


※『日本書紀』にある該当部分
 (国宝岩崎本)


その後も、赤気 (=オーロラ) は度々日本に現れた。

文献に登場するところでは、

鎌倉時代、藤原定家が書いた日記『明月記』にも、京の都で赤気を見たという記述がある。

【現代語訳】
“日没以後、北東の方角に赤気があった。
(中略) このように白い光と赤い光が相交わる様子は、奇しき上にも奇しきことである。恐るべき、恐るべき”

この時代、オーロラは彗星の出現と同じように凶事の前触れと捉えられていたようで、定家は恐れおののいている。


※『明月記』建仁4年正月19日
 (1204年) 該当部分冒頭



また、仁和寺の記録文書『御室相承記』(国宝) にも同じ現象に関する記述があり、
そこには、赤気は3日間連続して現れたと書かれている。
連夜の怪現象に、都の人々は驚き恐れたことだろう。

仁和寺の僧も不吉だとして、高野山詣を中止している。


時代が下がって江戸時代の明和7年 (1770年) 7月28日に、またもや日本各地でオーロラが見られた。

その目撃談は、記録に残っているだけで松前藩 (北海道) から薩摩藩 (鹿児島県) まで全国におよんでいる。

国文学者の本居宣長も、当時住んでいた伊勢松阪 (三重県) でこれを目撃し、

同日の日記に “不思議な赤い光を見た” と書いている。


その時の様子を、京の東羽倉家 (伏見稲荷大社社家) の日記が克明に記録している。

該当部分を見てみよう。

【現代語訳】

“28日 晴れ。

今日夕方6時頃、北の空に赤気が現れた。

遠く若狭国 (現在の福井県嶺南地方) の方が炎のような色になっていると噂になっていたが、

午後10時を過ぎるとますます赤くなり、

紅色の雲が北側の空の半分を覆い銀河にせまり、赤気のなかに白気がまっすぐに立ち上り幾筋もあらわれ、その状態が午前0時頃まで続いた。

赤気はにわかに明るくなったり、色が薄くなったりして、空の半分が赤気に包まれた。

赤気の中には星が透けて見え、白気が一筋銀河を貫き、午前2時頃には落ち着いた。

(中略) 神社の人々は空を仰ぎ、いろいろ話し合ったが、昔から噂にも聞かない天変で恐ろしいとだけ言っていた。

午前4時頃、空は晴れて通常に戻った。(後略) ”


※『東羽倉家日記』の該当部分
 (東丸神社蔵)


これと同じオーロラが記録されているのが、

京の僧 寿量庵秀尹が著した書物『星解』

で、詳細なスケッチも添えられている。


※『星解』(松阪市所蔵写本) 挿絵

 ※注釈参照


秀尹は京でこれを見たことになる。

この時のオーロラは、たとえると旭日旗の上半分のような形状をしていたことがわかる。

これを見ると、日本書紀にある “雉の尾” の形という表現もうなずける。


『星解』には、同様の現象が寛永12年 (1635年) の夏と享保14年 (1730年) の冬にもあったことが記されている。

これら、江戸時代の日本にオーロラを出現させた太陽フレアも、かなり大規模なものだったと推測される。


さらにその後、世界的なオーロラ出現があった。

1859年9月1日、イギリスの天体学者リチャード・キャリントンが太陽を観測中、黒点の中に白色光フレアが発生しているのを発見した。

世界で初めて太陽フレアが観測された瞬間だった。

翌日から、観測史上最大級の磁気嵐 (“キャリントン・イベント” と呼ばれている) が地球を襲い、

ヨーロッパやアメリカの電信システムは通信不能となった。

電信用の鉄塔は火花を発し、電報用紙は自然発火した。

そして、やはりオーロラが世界各地で観測された。

アメリカ北東部では、その明かりで夜でも新聞が読めるほどだったという。


この時、日本は安政6年の8月6日 (和暦) にあたり、やはり各地で赤いオーロラが目撃された。

弘前 (青森県) の酒造業 金木屋又三郎は、夕焼けのように赤い空が一晩中続いた光景に、

“ロシアの方で火災が起きたのだろうか、宗谷や樺太で起こったのかもしれないと噂が広がった。

何が起きたのかまったくわからなかった”

と日記に書き記している。


※『金木屋又三郎日記』該当部分
 (弘前市図書館蔵) 


同様の記録は、出羽平鹿 (山形県) や紀州 (和歌山県) にも残っており、

日本列島のあちこちでオーロラを観測できたとみられる。

当時の日本にはまだ電子通信システムがなかったので、磁気嵐の影響はなく、世の中に大きな混乱は起こらなかった。


人々を不気味がらせたオーロラは、明治以降も出現した。

しかし、西欧の進んだ文物が入ってくるようになり、

オーロラは科学的、天体学的に解釈されるようになる。

人々の迷信的な恐れはなくなり、“極光”という名を付けられたオーロラの研究は進んでいったのである。



【注釈】

1872年3月1日にフランスの天文学者で画家でもあるトルーヴェロが描いたオーロラの絵は『星解』の赤気の絵に酷似しており、

“星が透けて見える” という東羽倉家の日記の描写にも一致する。

このことは、出現時期は違うが、これらのオーロラが同じ特徴を持つタイプのものであったことを示している。


※トルーヴェロの描いたオーロラ