アメリカ映画と第二次世界大戦 | サト_fleetの港

サト_fleetの港

ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


先日発表された第96回アカデミー賞では、
日本の2作品『ゴジラ−1.0』と『君たちはどう生きるか』が、それぞれ視覚効果賞、長編アニメ映画賞を受賞した。
あらためて、世界規模のゴジラとジブリの人気の高さを証明したが、
この受賞のニュースがかすんでしまうように思えたのが『オッペンハイマー』の7部門受賞である。
作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞を獲得し、
アカデミー賞を根こそぎかっさらったという感じだった。



奇しくも、『オッペンハイマー』は第二次世界大戦におけるアメリカの原子爆弾開発の物語、
『君たちはどう生きるか』は戦争中の日本の子どもたちの生活を (ファンタジーだが)、『ゴジラ−1.0』は戦後間もない日本に現れたゴジラを描いていた。

ここで、私は第二次世界大戦を舞台にした作品に対する日米の決定的な違いをまたも見せつけられてしまった。
敗戦国の日本は、戦後も戦争映画を作るには作っているが、
戦争に負けたという負い目がある以上、どうしても戦争に対する反省が前面に立つ作品になる傾向があった。
また、戦争というものを真正面から描くことを避け、
戦争を舞台にしていても、戦没者の鎮魂的な内容や、戦時中の国民生活を描くことで戦争の悲惨さをイメージさせる内容にしたりしていた。

そこへ行くとアメリカは直球勝負だ。
資金力に物を言わせて、大規模な戦闘シーンをふんだんに盛り込んだ大作が数多く作られた。
そこに根強く流れるのは、アメリカが “正義” で、ドイツや日本など “悪” の枢軸国を破って第二次世界大戦を連合国の勝利に導いたという自負だ。
アカデミー賞受賞作品でいえば、かつて作品賞に輝いた『パットン大戦車軍団』(1971年)、撮影賞など2部門を獲得した『史上最大の作戦』(1962年) などをみると、
アメリカが第二次世界大戦を栄光の戦いだと思っているのがよくわかる。
それ以外の作品でも、ひとたびアメリカが奮い立てば、正義の鉄槌を邪悪な敵に下すというステレオタイプが続く。




それが、ベトナム戦争を境に風向きが変わってきた。
アメリカの行っている世界戦略は本当に正義なのか?
当時の若者たちを中心に、アメリカ国民の中に疑問が生じはじめた。
アカデミー作品賞受賞作品でいえば、
『ディアハンター』(1979年) や『プラトーン』(1987年) などの作品には、それが色濃く反映されている。




だが、第二次世界大戦物では、日本は長らく悪役だった。
日本が真珠湾を攻撃してアメリカが第二次世界大戦に参戦したという経緯からして、それはある意味当然かもしれない。
1970年のアカデミー視覚効果賞を受賞した『トラ・トラ・トラ』は、
一見、日本軍の大勝利を描いてはいるが、結果的にそれは日本の敗北への第一歩だったという内容だった。

かつてアカデミー作品賞を受賞した『戦場にかける橋』(1957年) も、表面上は戦争のむなしさをテーマにしているものの、
日本兵による連合軍捕虜虐待など、日本軍の “負” のイメージが強かった。
日本軍を悪役の色眼鏡で見ていない作品は、
日米双方の将兵を対等な人間として描いた
2007年の『硫黄島からの手紙』(アカデミー音響編集賞受賞) まで待たなければならなかった。





そこへ今回の『オッペンハイマー』だ。
事前に、原爆投下をどう描くか注目されていたが、結局原爆の惨状を描いたシーンはなかった。
やはり、ハリウッドも興行の世界。
アメリカ人が嫌悪感を示すような映画は作らなかったのだ。
無難な作り方で客受けのよい、多く興行収入が見込まれる内容にしたのだ。
その狙いは大成功だったようだ。
昨年7月に全米公開されて以来、
現時点で全世界興行収入は9億5000万ドル (約1400億円) を突破したという。
日本での公開は、3月29日だそうだが、はたして同じように大ヒットとなるのだろうか?

映画の中では、原爆を開発した中心人物ロバート・オッペンハイマー博士の葛藤が描かれていて、
戦後、原爆が投下された広島の惨状をフィルムで見て後悔するシーンもあるそうだ。
(そのフィルムは映し出されない)
観客は、いわばオッペンハイマーの伝記映画を3時間以上にわたって見せられる。
原子爆弾使用に対する是か否かの結論は、オッペンハイマーの苦悩に差し替えて、ぼかしてあるわけだ。
多少の反省の意味は感じられるものの、それはやはり勝者の側の上から目線に過ぎない。
オッペンハイマーは “原爆の父” と讃えられこそしたが、罪もない民間人を多数殺害した兵器を作ったことを断罪されることもなかった。

原子爆弾の使用は、なかなか降伏しない日本を屈服させるためにやむを得なかったとか、
民間人に多くの犠牲を出したが、長引く戦争を終わらせて、それ以上の日本と連合軍双方の犠牲を防いだという詭弁がアメリカの今も変わらぬ主張である。
アメリカが原爆を反省する映画など作るわけがないと思っていた。
おそらく、日本以外の国の人たちは、原爆のキノコ雲の映像は見たことがあっても、その下でどんな凄惨な光景が展開されていたか、
何万人の民間人が死んでいったかは知らないだろう。
映画『オッペンハイマー』は、それを世界に知らしめるまたとない機会だったのだが、
原爆の惨禍を描かなかったことで、そのチャンスは失われた。



一瞬で数万人の命を奪い、その何倍もの被爆者を戦後も苦しめ続けた広島・長崎の原爆投下はもとより、
一晩で約十万人の死者を出した昭和20年 (1945年) 3月10日の東京大空襲など、
アメリカ軍の戦略爆撃で、日本の民間人だけで約40万人が殺された。
このアウシュビッツも真っ青のジェノサイド攻撃を推進しながら、アメリカ軍は勝者であるため戦争犯罪に問われもしない。
ちなみに、今回のアカデミー賞では、アウシュビッツ収容所の所長の日常生活を描いた『関心領域』(米・英・ポーランド共同制作) が国際長編映画賞を受賞している。

また、アメリカは日本人が異教徒であり異民族 (白人でない) だったので原爆を投下したのであり、
ドイツには (原爆完成時に降伏していなくても) 投下しなかっただろうとも言われている。
この説は、戦争中アメリカ国内の日系人は財産を没収されて収容所に送られたのに、
同じ枢軸国のドイツ系やイタリア系の市民にはそういう措置が取られなかったことからみても信憑性が高い。
さらに、今回のアカデミー賞受賞式でのアジア系俳優差別騒動をみると、俄然うなづけてしまう。

第二次世界大戦以降も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして湾岸戦争からイラク戦争等々、
アメリカはこれまで、正義の戦いの名の下に何百万人の有色人種を殺してきたことか。
それを考えると、実際にオッペンハイマーが心を痛めたかどうかは知らないが、
時のアメリカ政府が、異民族日本に対しての原爆投下を躊躇なく決定したのは間違いないだろう。
理論上や実験上だけでなく、開発した原子爆弾の威力を実際に試したかったのだ。

さて、こういうことを書くと、
私という人間は “反米” かと思われるかもしれないが、そうではない。
一人の人間をみても、完全無欠な人間などいやしない。
それは、国であっても同じこと。
私はアメリカの好きなところは好きだが、嫌いなところは嫌いなだけだ。
そして、
そのアメリカの “核の傘” に守られて、
戦後日本が今日まで平和を保てたということも事実かもしれない。
そう考えると、複雑な気持ちにならざるを得ない。

アカデミー賞発表のニュースをみて、そんなことをふと思った。