太平洋戦争 (大東亜戦争) 中の昭和18年 (1943年) に、
高峰三枝子が歌ってヒットした『南の花嫁さん』という歌がある。
この歌は、戦時中に作られた歌にしては珍しく、明るい曲調で戦争の影を感じさせない。
ただ、歌われている “南” の地域とは、日本軍が進出した中国南部からマレー半島、インドネシアあたりをイメージしていると思われ、
日本の大東亜共栄圏構想を反映した “新領土のご当地ソング” というところだろうか。
『南の花嫁さん』
作詞∶藤浦 洸 作曲∶任 光
(編曲∶古賀政男)
歌唱∶高峰三枝子
(一) ねむの並木を お馬の背なに
ゆらゆらゆらと
花なら赤い カンナの花か
散りそで散らぬ 花びら風情
隣の村へ お嫁入り
※「おみやげはなあに」
「籠のオーム」
ことばもたったひとつ
いついつまでも
(ニ) 椰子の葉かげに 真っ赤な夕陽が
くるくるくると
まわるよ赤い ひまわりの花
たのしい歌に ほほえむ風情
心はおどる お嫁入り
※印以下くり返し
(三) 小川のほとり お馬をとめて
さらさらさらと
流れにうつす 花嫁すがた
こぼれる花か 花かんざしに
にっこり笑う お月さま
※印以下くり返し
作詞者の藤浦洸は、長崎県平戸市出身の作詞家。
昭和12年 (1937年)、淡谷のり子が歌って大ヒットした『別れのブルース』の作詞で名声を得た。
戦後は、『悲しき口笛』や『東京キッド』など美空ひばりの代表曲となった歌の作詞を手掛けたことでも有名。
作曲者は当初、古賀政男とされていたが、
この曲には原曲があり、それが中国の二胡などで演奏される『彩雲追月』という管弦曲だとわかったことから、
現在ではその曲を作った中国の作曲家 任光 (レン・グァン) を作曲者としている。
※現在、古賀政男は編曲者ということになっている。
任光は、1919年にパリに留学し、
帰国後は、レコード会社 百代唱片公司 (上海EMI) の音楽部主任として勤務していた。
『彩雲追月』は、その頃に制作されたと思われる。
彼は、日本軍の中国大陸侵攻が始まると抗日戦線の共産軍に身を投じたが、
昭和16年 (1941年) 1月に起こった中国国民党軍との内戦 (皖南事変) に巻き込まれて亡くなっている。
任光の作った『彩雲追月』はスローで静かな曲だ。
上海に滞在中これを耳にしたという古賀政男は、おそらく中国の民謡のような曲だと思ったのだろう。
これをベースにして、ややアップテンポに改め、一部メロディーをアレンジして南国情緒あふれる明るい曲にした。
こういった経緯で生まれた『南の花嫁さん』だが、
これを歌った高峰三枝子は当時24歳。
女優であり歌手であり “歌う映画スター” と呼ばれた今でいうスーパーアイドルのような存在だった。
ヒット曲も多数あり、その中でこの『南の花嫁さん』は『湖畔の宿』と並ぶ当時の人気曲だった。
高峰が日本軍基地の慰問に行った際、
感傷的でマイナー調の『湖畔の宿』は、死地に赴く兵士の心情に訴えて評判となり、出撃前の特攻隊員が聴きに来るほどだったが、
対照的に明るい曲調の『南の花嫁さん』も、歌うと兵士たちから大喝采を浴びた。
ヒットした戦時歌謡の特徴として、
明日をも知れぬ命の兵士たちの気持ちを代弁するような歌詞の歌か、
勇ましい戦意高揚の歌でなく、心なごむ曲調の歌が好まれたようだが、この歌は後者になる。
こうして『南の花嫁さん』は、国内ばかりでなく、兵士たちが口ずさんでアジア各地にも伝えられた。
こんな逸話がある。
昭和18年11月、東京で開催された大東亜会議に出席するため来日したビルマ (現 ミャンマー) のバー・モウ首相が高峰のファンだと知った東條英機首相は、
高峰を招いて各国首脳の前で歌わせた。
その時披露されたのは高峰の代表的なヒット曲『湖畔の宿』『純情二重奏』そして『南の花嫁さん』だった。
左から、バー・モウ (ビルマ)、張景恵 (満州)、汪兆銘 (中国南京国民政府)、
東條英機 (日本)、ワンワイタヤーコーン (タイ)、ホセ・ラウレル (フィリピン)、
スバス・チャンドラ・ボース (インド)。
広く人々に愛された『南の花嫁さん』は、
戦後も歌い継がれた。
昭和20年代、終戦とともに大勢の復員兵や引揚者が内地に帰ってきたが、
その中の尋ね人を探すラジオ番組があった。
この中でも『南の花嫁さん』はさかんに流れていたという。
昭和40年代には、某家電メーカーの洗濯機のCMソングにも使われた。
また、原曲は中国の歌なのだが、中国や台湾でも逆輸入される形で、流行歌として歌われた。
そして現代、
私が衝撃を受けた出来事があった。
2015年、NHKの歌謡番組に出演した声優で歌手の水樹奈々さんが、
『南の花嫁さん』をカバーして歌っていたのだ。
アニメソングなどを歌っている水樹奈々さんと、戦時中の流行歌という組み合せが意外だったのだが、
水樹さんは、お父さんが将来歌手にしたくて、幼い頃から厳しい特訓を受けていた。
『南の花嫁さん』もその練習曲の一つで、
水樹さんが5歳の時、初めて人前で歌ったのもこの歌だったそうだ。
『南の花嫁さん』は、水樹さんが、今は亡きお父さんを偲ぶ思い出の曲だったのだ。
戦前に中国で誕生したメロディーが、
日本人の手によって歌謡曲にアレンジされ、戦中、戦後と歌われた。
多くの人が、さまざまな想いで聴き、口ずさんだ『南の花嫁さん』は、
平和になった今も、思い出の歌として歌い継がれ、人々の心の中に生き続けている。
このことからも、
あらためて、歌には普遍の力があることを知るのである。
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