“無宿渡世に怒りを込めて” 〜あらためて『木枯し紋次郎』を考察する~ | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


CS放送の時代劇専門チャンネルで、今『木枯し紋次郎』を放送している。
このチャンネルでは、もう何度目かの再放送になる。
木枯し紋次郎については、このブログでも過去に何度か取り上げているが、
リアルタイムで放送を観てファンになった私 (歳がバレる…) としては、何度観ても懐かしくもあり、また新たな発見に出会えたりもする。

過去のブログと一部重複するかもしれないが、ここで紋次郎のプロフィールを紹介したい。(架空の人物だが)




上州無宿紋次郎、人呼んで木枯し紋次郎
口にくわえた長楊枝を吹いて鳴らすと、
木枯らしのような寂しげな音がすることから、この名が付いた。

生国は上州新田郡三日月村。
貧しい農家に生まれ、“間引き” で親に殺されそうになったところを、姉がかばったおかげで九死に一生を得る。
10歳の時に故郷を棄てて無宿渡世の世界に入ったが、
強い者のみが生き残る世界で揉まれるうち、腕の立つ渡世人に成長し、
30歳頃には、街道中にその名が知れ渡るようになった。


『木枯し紋次郎』は、作家の笹沢左保が月刊『小説現代』に連載していた股旅小説を原作として、
1972年1月からフジテレビ系で全国放送された。
股旅物といっても、義理人情に厚い旅の渡世人が、義侠心から宿場の悪を倒して人助けをするといったそれまでのステレオタイプからはかけ離れた作品だった。
主人公の紋次郎が、間引きされそうになったことが心の傷になってか、
人を信じず、人を頼らず、己 (おのれ) の腕と腰の長ドス (長脇差) だけを頼りに生きる、というハードボイルドなタッチの作品になっている。

映像化に際して、紋次郎のキャラクターは原作に準じているが、
演出・監修にあたった市川崑はさらに独自のアレンジを加えた。
原作では五寸 (約15cm) となっている長楊枝は、より映像映えするよう倍近く長くした。
また、紋次郎の被っている三度笠は、実際のものより大きく深くなっており、
道中合羽 (かっぱ) も、スッポリ上半身から膝あたりまで覆える大きなサイズのオーダーメイドだ。
これは、市川崑が『木枯し紋次郎』を日本の西部劇にしようと試みた結果で、
ポンチョをまとったニヒルなガンマンが登場するマカロニウエスタンの影響を強く受けている。

 


このスタイルが映える演者となると、長身面長の男性ということになり、
当時、新進気鋭の若手俳優 中村敦夫が抜擢された。

だが、紋次郎の細かなキャラクターについては、初期の頃はまだ確立されておらず、
後に話題になる紋次郎の特徴ある食事の仕方も、第1話『川留めの水は濁った』では、旅籠 (はたご) に泊まってまだおとなしく普通に食べている。
これが後に、飯碗の中に味噌汁やおかずや漬物などを全部ぶっ込んで箸でかき混ぜ、ろくに噛まずに一気に口から流し込むようになる。
第3話『峠に哭いた甲州路』からこのスタイルになった。

あてのない旅を急ぐという紋次郎の生き様の一端が、ここに凝縮されているかのようだ。





正式な剣術を習ったこともない渡世人の紋次郎は、斬り合いにおいてもケンカ殺法のはずである。
紋次郎の相手はたいてい複数なので、走り回りながら相手を撹乱して疲労させ、
体勢の崩れたところで長ドスで叩きつけたり突いたりする戦法で戦う。
長身をいかして相手を抱え込んで投げ飛ばすなど、格闘技のような闘いぶりも見せる。

紋次郎の長ドスは、渡世人が持つものとしては頑丈な造りだが、
しょせん武士の刀のような品質は望めないので、派手に斬り結べば、刃こぼれを起こしたり折れたりしかねない。
そこで、このような闘い方をするようになったわけだ。
これは、殺陣師の美山晋八の発案によるといわれ、リアリティーを追求したものになっている。


 



演じる中村敦夫もそのコンセプトを遺憾なく体現して立ち回りをやっていたが、
従来の型にはまった殺陣になじんだ一部視聴者から「紋次郎は殺陣が下手だ」と酷評された。
これについて中村敦夫は、当時出演したトーク番組で、
前述の趣旨に基づき、リアル感をもたせるための演出だと語って反論していたのを覚えている。

第2シーズン (続・木枯し紋次郎) 第8話、中村敦夫自らが監督を務めた『獣道に涙を棄てた』では、
紋次郎は多人数の敵を相手にラグビーのように縦横無尽に走り回り、翻弄する演出になっていた。
団子状になったスクラムのような揉み合いを一人抜け出すなど、ややコミカルな描写も交え、
走り負けることなく敵を出し抜いていく紋次郎の身体能力の高さが描かれていた。



このような斬新な闘いのシーンが全編を通じて登場するが、
リアリティーを追求するにしても、血はテレビドラマではご法度とするプロデューサー側と、市川崑ら演出側とで軋轢もあったようだ。
結局、これは市川ら現場サイドが折れ、
第2話『地蔵峠の雨に消える』の後は、斬り合いシーンで血が流れる演出はない。

紋次郎の決め台詞「あっしには関わりのねえこって」も、
最初の頃は必ずしも言うとは限らず、言わない回もあったが、
回を重ねるうちに、お約束のように言うようになった。
このように、後におなじみになる紋次郎のキャラクターやスタイルは、
ドラマの進行とともに定着していった。




「関わりのねえこって…」
と言いながら、紋次郎は結局関わってしまい、面倒に巻き込まれる。
むしろ、渡世の義理なのか積極的に関わることもあり、紋次郎は本当はお人好しなのではないかと思うことがある。
私はこれを、
“紋次郎お人好し説” と勝手に名付けている。
そうなってしまうのは、主題歌の歌詞にもあるように、
“どこかで誰かが、きっと待っていてくれる” ことを心の奥で渇望する紋次郎の心情からきているのかもしれない。

だが、結局はまた裏切られて、
「ごめんなすって」
と、道中合羽をひるがえすと、
その背中に哀しみを漂わせながら、あてのない旅を続けるのが常である。
もっとも、
主人公が何事にも一切関わらず、面倒事をスルーしていれば平穏なのだろうが、
それでは、物語が始まらない・・・。




市川崑が西部劇のエッセンスを取り入れたいと考えていたことは先に述べたが、
西部劇といえば、第2シーズン第5話『夜泣石は霧に濡れた』で、去っていく紋次郎に村の子供が
「おいちゃん、あばよー!」と叫ぶシーンがある。
これなど、まさにあの『シェーン』のラストシーンでジョーイ少年が叫ぶ
「シェーン、カムバック!」のオマージュになっている。

また、この回では、紋次郎がどうしてもコンニャクが食べられないというシーンも出てくる。
それは、コンニャクが間引きに使われる現場を見たことがあるため (これで赤子の顔を覆って窒息させる)、
自身も間引きされそうになった経験を持つ紋次郎がトラウマになっているからだ。
これが、紋次郎の弱点といえば弱点である。


なお、テレビシリーズ『木枯し紋次郎』のエピソードのうち、
【第1シーズン】
第2話『地蔵峠の雨に消える』、第3話『峠に哭いた甲州路』、第13話『見返り峠の落日』、第15話『背を陽に向けた房州路』、第16話『月夜に吼えた遠州路』
【第2シーズン】(続・木枯し紋次郎)
第4話『地獄を嗤う日光路』、第10話『飛んで火に入る相州路』、第15話『木っ端が燃えた上州路』、第17話『雪に花散る奥州路』
などは、
笹沢左保の “街道シリーズ” など別の股旅小説の主人公を紋次郎に置き換えたものである。




いずれにしても、紋次郎が活躍した天保年間 (1831-1845年) は、不穏で暗い時代だった。
天候不順による大飢饉や幕府の経済政策の行き詰まりは、農村からの大量の棄民を発生させた。
農村を棄てた人々は、紋次郎のように無宿人や博徒になる例が多かった。
農村の荒廃による年貢米の減少や、棄民の流入による江戸の人口集中に悩んだ幕府は、老中 水野忠邦が天保の改革を断行し、
その一環として、江戸への移住を事実上禁止する “人返し令” を出した。
(北町奉行 遠山金四郎らはこれに反対した)

しかし、その頃すでに日本国内は、各地で一揆や打ちこわしが頻発して治安が悪化しており、
これに加えて、外国船の来航が活発化し、鎖国制度も揺らぎはじめていた。
清朝中国がアヘン戦争に敗れてイギリスに香港を割譲させられた上、
不平等条約を結ばされたという情報は江戸にももたらされた。
幕府も民衆も、日本の行く末に不安を感じていたが、
それは、間もなく幕末の動乱という形で現実化する。

原作者の笹沢左保は、こういった時代背景の『木枯し紋次郎』が人気を博したのは、
放送当時 (1970年代) の世相と共通点があったからだと指摘した。
それは、「政治不信」「金権主義」「明確な生きがいの欠如」「漠然とした不安」の4点だという。
このうちの「金権主義」を「格差社会」と読み替えれば、現代の風潮にも言えることではないか。
その驚くほどの類似性に、おそろしさすら感じる。

※紋次郎役の中村敦夫と原作者
笹沢左保。
(テーマパーク三日月村HPより)


50年前のドラマ『木枯し紋次郎』が再放送を繰り返し、
今もファンを惹き付けているのは、やがて来る時代の暗示かもしれない。

そう思うのは、私だけだろうか。



(文中の敬称は略させていただきました)