日本機動部隊戦記 ① 〜インド洋作戦〜 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


昭和17年 (1942年)3月、

日本軍は、蘭印 (オランダ領インドシナ=現インドネシア) の中枢ジャワ島を攻略。

フィリピンにおいては、ルソン島バターン半島の攻防戦も大詰めを迎え、その制圧は時間の問題であった。

さらに、ビルマ (現ミャンマー) の首都ラングーンを占領した日本軍は、ビルマ全土の支配を目指して進撃を続けていた。


これらの地域を守備していたオランダ、アメリカ、イギリスなどの連合軍は、防衛線の後退を余儀なくされたが、

依然、後方には強力な軍事拠点を維持しており、反攻の機会をうかがっていた。

インド洋にあるセイロン島 (現スリランカ) もその一つであった。


(図∶当時の日本ニュースより)


この年の2月に、東洋における牙城シンガポールを失陥したイギリス軍は、

セイロン島のコロンボやトリンコマリーなどの港湾に基地を構え、兵力を蓄積していた。

イギリス東洋艦隊は、開戦劈頭マレー半島沖で主力戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』を日本海軍の基地航空隊に沈められたものの、

セイロン島を拠点として、正規空母2隻、戦艦5隻、重巡洋艦2隻などから成る艦隊が健在であった。

このうちの戦艦は、いずれも低速の旧式艦であったが、その大口径の主砲は、ビルマや蘭印方面の日本軍海上補給ルートの脅威となり得た。

また、新鋭空母『インドミタブル』と『フォーミダブル』の動きも見逃せなかった。




■ インド洋作戦発動


インド洋における連合軍兵力を撃滅するため、日本軍は新たに “インド洋作戦” を発動した。

すなわち、水上艦隊 (戦艦、巡洋艦など)、潜水艦部隊、空母機動部隊を三本柱とし、

東インド洋の連合軍拠点攻撃と通商破壊戦を行おうとするものであった。

この作戦に参加するため、

第一航空艦隊は、占領間もない蘭印のセレベス島 (現スラウェシ島) スターリング湾に集結していた。


一方、セイロン島に在泊中のイギリス東洋艦隊は、着任したばかりのジェームズ・サマヴィル中将が司令長官を務めていた。

サマヴィル中将は、ヨーロッパ戦線においてダンケルクの戦いや、ドイツ戦艦『ビスマルク』追撃戦に参加するなど、経験の豊富な人物であった。

当時のイギリス海軍は、艦隊を温存してその潜在的圧力で敵国の海上活動を妨害するという “艦隊保全主義 (現存艦隊主義)” をとっていた。

そのため、サマヴィル中将は戦う姿勢は見せながらも、

積極的な交戦は避け、航空機の夜襲などで日本軍の戦力を漸減させる作戦を考えていた。


※サマヴィル長官座乗の東洋艦隊
旗艦『ウォースパイト』

 (HMS Warspite) 


※新鋭空母『インドミタブル』

 (HMS Indomitable, 92)




3月26日、

南雲忠一中将を司令長官とする日本機動部隊は、スターリング湾を出航。

ティモール島の北、オンバイ海峡を通過してインド洋に入った。

その兵力は、

第一航空戦隊『赤城』、第二航空戦隊『飛龍』『蒼龍』、第五航空戦隊『瑞鶴』『翔鶴』の空母5隻※注釈1 (艦載機350機) を主力とし、

支援の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、補給艦などあわせて30隻以上という真珠湾攻撃以来の大機動部隊であった。


また同日、インド洋作戦の三本柱の一つ、小沢治三郎中将指揮の水上艦隊 “馬来 (マレー) 部隊” も機動部隊に呼応し、

旗艦の重巡洋艦『鳥海』以下、巡洋艦、駆逐艦など約20隻をもって、ベンガル湾での通商破壊戦を開始した。


※インド洋に向かう日本機動部隊
艦影は右から、戦艦『金剛』『榛名』『霧島』『比叡』、空母『飛龍』『蒼龍』『赤城』。
写真右端には空母『瑞鶴』の高角砲が見える。


一方、連合軍は日本軍の暗号解読に成功しており、

4月1日に日本機動部隊がセイロン島を攻撃するという情報をいち早く掴んでいた。

サマヴィル中将は、これを迎え撃つべく待ち構えていたが、4月1日に日本軍は現れなかった。

日本機動部隊は、第五航空戦隊のスターリング湾合流が遅れたため、

セイロン島攻撃の日を4月5日に延期していたのだ。

日本軍の動きが今ひとつ読めないサマヴィル中将は、

セイロン島に艦隊を留めておいては、真珠湾の二の舞になるとして、

秘密裏に建設したアッズ (アッドゥ) 環礁の基地に艦隊を移動させることにした。



4月4日午後、

日本機動部隊は、セイロン島の南東700㎞を航行していた。

同海域を哨戒中のカナダ軍のカタリナ飛行艇がこれを発見し「敵艦隊見ゆ」の無電を発信した。

飛行艇は上空掩護の零戦に撃墜されたが、発信した無電は、艦隊とともにアッズ環礁に到着したサマヴィル中将のもとにも届いた。


※コンソリデーテッド・PBY
カタリナ飛行艇


アッズ環礁に移ったイギリス艦隊は、燃料補給が完了しておらず出撃準備が整っていない艦があり、

サマヴィル中将は、戦艦『ウォースパイト』、空母『インドミタブル』など出撃可能な艦のみで夜間攻撃を試みたが、日本機動部隊を発見できなかった。




■ コロンボ空襲


4月5日未明、

日本機動部隊は、セイロン島の南370㎞の海域に進出していた。

この日は、同島の一大商港コロンボを空襲するため、将兵たちはいつもより早く起床した。

洗顔のあと、南方用の半袖・半ズボンの防暑服から、新しい長袖・長ズボンの服に着替え (戦闘で負傷した場合の化膿防止のため)、

めいめい、竹皮に包まれた握り飯とたくあん、焼鮭の切り身、味噌汁といった簡単な朝食を摂った。(戦闘配食) 


空母の艦内に、拡声器 (スピーカー) から「搭乗員集合」の号令が流れると、

飛行服に身を包んだ攻撃隊の搭乗員たちは控室に集まってブリーフィングを行い、そのあと飛行甲板に出ていった。

まだ仄暗い飛行甲板には、すでに戦闘機や攻撃機が発進位置に並べられ、轟々とエンジン音を響かせていた。

搭乗員たちが次々に愛機に乗り組んでいく。

やがて「発着配置よろし」の合図で、

隊長機が赤と青の標識燈を点けると、これにならって待機中の全機が翼端燈を点けた。

飛行甲板にも、夜間照明用の燈火が灯る。

これらの明かりが、まるでイルミネーションのように、まだ明けやらぬインド洋に輝いていた。


日本時間 午前9時 (現地は早暁)、

※以下、日本時間で表記。

「発艦始め」の合図で、攻撃隊は軽快なエンジン音とともに、順次5隻の空母から飛び立っていった。

その数、零戦36機、九七艦攻54機、九九艦爆38機、合計128機。

九七艦攻は、魚雷ではなく800㎏ 爆弾を搭載していた。

攻撃隊を指揮するのは、真珠湾攻撃と同じく空母『赤城』飛行隊長の淵田美津雄中佐だ。


※暁光の中、艦橋に “発艦始め” 
の発光信号


※800㎏爆弾を抱いてセイロン
に向けて飛ぶ九七式艦上攻撃機


セイロン島までは約2時間の飛行

攻撃隊は、淵田中佐の乗った総隊長機 (九七艦攻) を先頭にして、

艦攻隊が前面に、その後ろ上方に艦爆隊、さらに、その上方に制空隊の零戦が付けて、高度4000〜4500mを飛行していた。

攻撃隊がセイロン島に近付くと、空には積乱雲が覆い、ピカッ、ピカッと稲妻の閃光がきらめいている。

その中は激しい乱気流が渦巻いており、

うかつに入り込もうものなら、機体は錐揉み状態に翻弄されてしまう。

淵田中佐は、分厚い雲を避けながら、攻撃隊をコロンボに誘導していった。


少し雲が薄らいだ時だった。

淵田中佐は、はるか眼下を攻撃隊と逆方向にノロノロと進む12機の複葉機の機影をみとめた。

それは、魚雷を抱いて日本機動部隊攻撃に向かうイギリス軍のソードフィッシュ雷撃機の編隊だった。

淵田中佐は風防を開けると、

制空隊の隊長 板谷茂少佐 (空母『赤城』飛行隊長) の零戦に向かって敵編隊を指差し、

拳をかざして「叩き落とせ」と合図した。

板谷少佐は、片手を挙げて「了解」と返答し、ただちに零戦隊を率いて急降下した。

突如上空から逆落しをかけてきた零戦隊の前に、旧式で速力の遅いソードフィッシュ機は敵ではなく、たちまち全機撃墜された。


※フェアリー・ソードフィッシュ
雷撃機



午前10時45分、

曇天の中、攻撃隊はコロンボ上空に進入した。

この時点では、敵機の迎撃もなく、地上の対空砲火も沈黙したままだった。

日本機動部隊の空襲が予想されるとの事前情報で、

コロンボ港からは商船25隻がすでに脱出していた。

しかし、港内にはまだ20隻以上の商船と、アッズ環礁に退避しなかった少数のイギリス軍艦艇が残っていた。


最初に攻撃をかけたのは艦爆隊であった。

飛行場や港内の艦船に、九九艦爆の急降下爆撃が開始された。

続いて、艦攻隊の九七艦攻が水平爆撃で、船舶、桟橋、兵舎、工廠、鉄道などを猛爆する。

日本軍の攻撃開始とほぼ同時に、イギリス軍の対空砲火が一斉に撃ち出される。

イギリス軍の戦闘機約40機も迎撃に舞い上がってきた。

たちまち、制空隊の零戦と大空中戦となり、陸上基地機のハリケーン戦闘機14機と艦上戦闘機のフルマー4機が撃墜された。

加勢に来たソードフィッシュ雷撃機8機も撃墜された。

日本側の損害は、艦爆6機と零戦1機だった。


※ホーカー・ハリケーン戦闘機

※フェアリー・フルマー艦上戦闘機



停泊中の艦船では、駆逐艦『テネドス』と仮装巡洋艦『ヘクター』が撃沈され、

ほかに、潜水母艦1隻と商船3隻が破壊された。

しかし、攻撃隊総指揮官の淵田中佐はこの戦果に満足せず、

午前11時18分、機動部隊司令長官の南雲忠一中将あてに

「第二次攻撃を準備されたし」と打電した。

これを受けて、旗艦空母『赤城』艦橋にあった南雲中将は、

敵空母出現に備えて魚雷を抱いて待機させていた攻撃機を爆装 (爆弾搭載) に転換させ、第一次攻撃隊収容後ただちに出撃するよう命じた。

南雲中将の頭には、外洋の大型艦には魚雷、港湾内の地上施設や停泊艦船には爆弾という概念が凝り固まっていた。


各空母では雷爆転換 (魚雷から爆弾への転換) にかかり、作業にあたる整備兵たちで格納庫や飛行甲板はごった返した。

通常、こういった作業にはたっぷり2時間を要する。


※兵装転換中の整備兵たち


すると、

午後1時頃、哨戒にあたっていた重巡洋艦『利根』の九四式水上偵察機から

「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」との報告が入った。

この偵察機は燃料が不足して現場海域を離れたため、

南雲中将は『利根』と僚艦『筑摩』から別の水上偵察機を発進させ、確認に向かわせた。

そして、先ほど爆装を命じた攻撃機を、再び魚雷に兵装転換するよう命じた。

再三変更される命令に、各空母の艦上は混乱を極めた。


その後、今度は軽巡洋艦『阿武隈』の水上偵察機から「敵駆逐艦2隻発見」の報告が入り、

先に『利根』の偵察機が見つけた敵巡洋艦は、駆逐艦を見誤ったものではないかとの疑念が出てきた。


※重巡『利根』の水上偵察機と
同型の九四式水上偵察機。


『赤城』艦上では、参謀たちの間で議論が戦わされた。

先任参謀の大石保中佐は、発見された敵艦が駆逐艦ならば、コロンボへの第二次攻撃を優先すべきと主張。

これに対し、航空参謀の源田実中佐は、駆逐艦であろうと、敵海上兵力の撃滅が優先であると主張した。

この間、第ニ航空戦隊の司令官 山口多聞少将より、

「攻撃隊発進の要ありと認む」

との出撃を催促する信号が旗艦『赤城』に送られてきた。

このあたりの状況は、真珠湾攻撃での第二次攻撃実施の是非をめぐる対立や、

後のミッドウェー海戦での兵装転換中の敵艦隊発見の混乱に酷似している。


結局、南雲中将は発見した敵艦の攻撃を優先することにし、

すぐに出撃できる第一航空戦隊と第ニ航空戦隊の急降下爆撃隊53機 (赤城機17機、蒼龍機18機、飛龍機18機) を発艦させた

相手が駆逐艦なら、九九艦爆の250㎏爆弾でも有効と判断したのだ。

『蒼龍』艦爆隊長の江草隆繁少佐に指揮された攻撃隊は、午後2時49分から3時3分にかけて各艦から発進した。


その直後、確認のため飛び立っていた『利根』の水上偵察機から、先に発見された敵艦は巡洋艦であるとの報告が入った。

それは、イギリス海軍の重巡洋艦『ドーセットシャー』と『コーンウォール』で、

別任務のため、東洋艦隊本隊と分かれて行動していたのだった。


※重巡洋艦『ドーセットシャー』
艦尾側からの写真

 (HMS Dorsetshire, 40)


※重巡洋艦『コーンウォール』

 (HMS Cornwall, 56)



装甲の厚い重巡洋艦には、九七艦攻の魚雷か800㎏爆弾でないと効果がないと考える南雲中将は、

午後5時を目処に、第五航空戦隊の九七艦攻のうち魚雷への兵装転換が終わったものから、第二次攻撃隊として発進させることにした。


午後3時55分、

江草少佐指揮の九九艦爆隊は、偵察機からの報告にあった2隻の巡洋艦を発見。

「突撃準備隊形作れ」の命令の下、

太陽を背にした優位な攻撃位置を占めて接近していった。


午後4時29分、

突撃命令が下され、先頭の『蒼龍』艦爆隊が攻撃に移った。

赤い尾翼に黄色のストライプという派手な塗装の機体に乗った江草少佐は、

手前の一番艦目がけて高度4000mから急降下すると、高度450mで投下索を引いて250㎏爆弾を投下。

すかさず、Gに逆らって渾身の力で操縦桿を引き起こすと、機体を上昇させた。

その時、後部席の偵察員が叫んだ。

「初弾命中!」

続いて2番機、3番機と、次々に急降下して爆弾を投下していく。

たちまち、敵の1番艦は爆弾の炸裂する閃光と立ち上る煙に包まれた。


※江草少佐の九九式艦上爆撃機
(復元イメージ)


このほか、

小林道雄大尉指揮の『飛龍』艦爆隊は、『ドーセットシャー』と思われる1番艦に18発投下17発命中。

阿部善次大尉指揮の『赤城』艦爆隊は、敵1番艦に対して第二中隊8機が攻撃して7発命中、2番艦には第一中隊9機が8発命中させるなど、

艦爆隊の放った52発の爆弾のうち46発が命中した。(赤城機1機が投弾不能)

これは、通常25%前後の命中率といわれる急降下爆撃において、88%という驚異的な命中率だった。


攻撃開始から13分で『ドーセットシャー』が沈没、続いて『コーンウォール』も18分で沈没した。※注釈2

日本軍側に損害はなかった。

『ドーセットシャー』は、ドイツ戦艦『ビスマルク』追撃戦において、とどめの魚雷を発射してこれを沈めた武勲艦だったが、

日本機動部隊の艦爆隊の前に、あっけなくインド洋の藻屑と消えた。


※爆撃回避運動中の『ドーセット
シャー』と『コーンウォール』

※左舷に傾斜して沈没しつつある
『コーンウォール』



午後4時58分、

江草少佐は「敵巡洋艦2隻撃沈」を打電した。

予想外に早い敵艦沈没の報告に、南雲中将は第二次攻撃を中止し、

次の作戦であるトリンコマリー軍港攻撃のため、イギリス空母に警戒しつつセイロン島東方海域に移動した。




■ トリンコマリー空襲

4月9日午前9時、
日本機動部隊は、トリンコマリー東方370㎞の海上から、淵田中佐指揮による第一次攻撃隊132機 (九七艦攻91機、零戦41機) を発進させた。
ここまでは、4日前のコロンボ空襲とほぼ同じ状況だった。
日本側の動向はイギリス軍側に察知されていると思われるため、
今回の攻撃は強襲攻撃とし、敵空母の出現に備えて機動部隊の艦載機の半数は各空母に残された。

午前10時頃、
攻撃隊は、快晴のトリンコマリー上空に到達。
爆撃を開始すると、待ちかまえていたイギリス軍戦闘機20機余りが迎撃に舞い上がってきた。
零戦隊が応戦して空中戦となり、日本軍はハリケーン8機とフルマー1機を撃墜。
飛行場の滑走路上で、ハリケーン2機を地上撃破した。
また、軍事施設や港湾施設を攻撃したほか、港内に停泊していた汽船1隻と砲艦1隻に損害を与えた。
港内は、軍の弾薬庫が爆発して黒煙を上げ、工廠が使用不能なほど破壊された。
日本軍側の損害は、零戦3機と九七艦攻1機だった。

トリンコマリーはインド洋随一の軍港であったが、
サマヴィル中将の東洋艦隊は、その主力をアッズ環礁の秘密基地に移動させており、
直前まで残留していた軽空母『ハーミーズ』(ハーミス) など数隻も、事前に港外に退避していた。
そのため、第一次攻撃の艦船に対する戦果はいささか乏しいものであったが、
淵田中佐は所期の戦果をあげたとして攻撃隊を帰還させた。

※トリンコマリー空襲から帰還した
淵田中佐機 (九七式艦上攻撃機)


トリンコマリー空襲が終わった午前10時55分頃、
哨戒中の戦艦『榛名』水上偵察機より、南方海域に敵空母1隻と駆逐艦3隻発見との報が入った。
トリンコマリー港から退避中の軽空母『ハーミーズ』をはじめとする艦船の一団であった。

※軽空母『ハーミーズ』
 (HMS Hermes, 95)


午前11時43分、
これを攻撃するため、高橋赫一少佐 (空母『翔鶴』艦爆隊長) 指揮の第二次攻撃隊91機 (九九艦爆85機、零戦6機) が発進した。
源田航空参謀は、整備の関係で直掩の零戦が少数しか出せないことを危惧していたが、
敵空母攻撃のチャンスを逃さぬため、この編成のまま出撃させることになった。

午後1時30分、
第二次攻撃隊は、セイロン島東岸バッティカロア沖で、スコールに紛れて航行する『ハーミーズ』以下を発見。
5分後、低く垂れこめた雨雲を衝いて艦爆隊が急降下爆撃に移った。
『ハーミーズ』は、艦載機 (ソードフィッシュ雷撃機) すべてをトリンコマリーに揚陸していて、迎撃に舞い上がる機体はなかった。

※高橋少佐機 (九九式艦上爆撃機)
といわれる写真


攻撃隊の九九艦爆は『ハーミーズ』に殺到。
対空砲火の弾幕をくぐって、入れ代わり立ち代わり250㎏徹甲爆弾を投下した。
命中した複数の爆弾は甲板をぶち破って艦内で爆発し、後部弾薬庫が誘爆するに至った。
艦橋にも直撃弾があり、艦橋にいた艦長以下の幹部全員が戦死した。
10,850トンの軽空母は、実に37発の命中弾を浴び、しだいに艦首を海面に突っ込むようにして左舷に傾きはじめた。
対空射撃をしていた機銃座の兵士たちが、海上に逃れていくのが見える。
そして、ついには大爆発を起こして沈没していった。
攻撃開始から10分後のことであった。
勇敢にも『ハーミーズ』の右舷艦尾の高角砲は、沈没寸前まで対空射撃を続けていたという。

※日本艦爆隊の攻撃で満身創痍
『ハーミーズ』(この後沈没)


『ハーミーズ』を攻撃した艦爆は45機。
投弾45発中37発命中という精度で、またも82%の高い命中率を記録した。
『ハーミーズ』が沈没すると、まだ投弾していない機は、随伴していたほかの艦船を攻撃し、
オーストラリア駆逐艦『ヴァンパイア』や、哨戒艦1隻、補給艦2隻などを撃沈した。※注釈3

攻撃を終了した攻撃隊が帰投しようとした時、
沈没前に『ハーミーズ』が打電した応援要請を受けてセイロン島から駆けつけたイギリス軍陸上基地機が、艦爆隊に襲いかかった。
トリンコマリーのイギリス軍飛行場や航空機は、日本軍の第一次攻撃で大損害を受けたはずだったが、
まだ生き残っていたフルマー戦闘機6機が勇躍飛来したのだった。
(日本側の記録ではスピットファイア9機。しかし、この地域に同機は配備されておらず、フルマーを誤認したもの) 

制空隊の零戦が6機しかいなかったのが災いし、『蒼龍』艦爆隊の九九艦爆4機が撃墜された。
それでも、九九艦爆は機首に7.7㎜機銃があり、果敢に敵戦闘機とわたり合った。
イギリス軍側はフルマー戦闘機2機を失って退散した。


その頃、日本機動部隊では、憂慮すべき事態が発生していた。
各空母では、トリンコマリーを空襲した第一次攻撃隊が帰還し、
引き続き『ハーミーズ』攻撃に向かうため魚雷を積んでいる最中だった。(まだ『ハーミーズ』撃沈の報が入っていなかった)
そこへ、突如として9機のブレニム (ブレンハイム) 爆撃機が現れ、旗艦の『赤城』を狙って爆弾を投下したのだ。

※ブリストル・ブレニム爆撃機
(極東に配備されていたMk.1=初期型)


高い高度からの水平爆撃だったため、爆弾は『赤城』や『利根』を挟叉して水柱を上げたが、命中弾はなかった。
直掩戦闘機も空母の見張り員も、敵の爆撃機の編隊が上空に迫っていることに誰も気付かなかったのだ。
直掩の零戦隊が追撃して、ブレニム5機を撃墜したが、一歩間違えば大変な事態になるところであった。
このイギリス軍機の奇襲による機動部隊艦船の被害はなかったが、
直掩戦闘機隊の指揮官 (空母『飛龍』戦闘機隊分隊長) 能野澄夫大尉が、敵機との交戦で撃墜され戦死した。

コロンボ空襲での敵艦発見時の混乱と同様、2ヵ月後のミッドウェー海戦で起きる悲劇の予兆がここに現れていた。
ミッドウェーでも、機動部隊の真上にいた敵の急降下爆撃機に気付かず、
この時は4空母が次々に被弾して炎上、日本軍は大敗北を喫したのだった。
今回、敵の爆弾が命中しなかったのは偶然の幸運だった。
旧態依然とした考え方の人物を司令長官にした弊害、そして、連戦連勝からくる慢心と油断が招いた見張りの不徹底。
これは無敵に見えた日本機動部隊のアキレス腱だった。
この弱点を改善していれば、ミッドウェーでの惨敗はなかったかもしれない。


トリンコマリー空襲における軽空母『ハーミーズ』撃沈と、先のコロンボ空襲での重巡『ドーセットシャー』『コーンウォール』撃沈は、
あわせて、“セイロン沖海戦” と呼ばれている。
インド洋作戦では、機動部隊とは別に小沢中将の水上艦隊がベンガル湾で通商破壊作戦を行って連合国商船21隻を沈め、
潜水艦部隊もセイロン島西海域で商船10隻を沈める戦果を上げた。

(図∶産経新聞記事より)


日本軍は、アッズ環礁に脱出したイギリス東洋艦隊の主力空母や戦艦を撃滅することは出来なかったが、
日本軍の攻勢の前には、艦隊保全主義による抑止力が無力だと悟ったイギリス軍は、
インド洋における拠点を、セイロン島からアフリカ東岸のマダガスカル島まで後退させることになる。

作戦終了後、日本機動部隊では、
飛行甲板に乗組員が整列し、戦死者のために1分間の黙とうを捧げた。
そして、針路を東にとると、夕暮迫るインド洋をあとにしたのであった。




【注釈】

1. 空母『加賀』はパラオ泊地で暗礁に接触して艦体を損傷し、修理のため日本本土へ回航されていた。


2. イギリス側の記録によれば、

『ドーセットシャー』の戦死者は234名、『コーンウォール』は190名。

漂流していた両艦の生存者1122名は、4月6日午後遅くにサマヴィル中将が派遣した巡洋艦や駆逐艦に救助された。


3.『ハーミーズ』は艦長以下307名が戦死、『ヴァンパイア』の戦死者は9名。
両艦の生存者590名は病院船『ヴィータ』に救助された。
また、哨戒艦『ホリホック』は艦長以下53名が戦死し、生存者は16名だった。