戦う “遠山金四郎” | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


日本の伝統芸能として名高い歌舞伎や落語。
江戸時代にかけて発展し、庶民の間で大人気のエンターテイメントとなったが、
その灯が消えてしまいかけた危機があった。
だが、この危機はある人物の活躍によって回避された。
その人物の名は、遠山左衛門尉景元 (とおやまさえもんのじょうかげもと)、通称は金四郎。
“遠山の金さん” と言った方がわかりやすいかもしれない。
以下 “金四郎” と、尊敬と親しみを込めて呼ばせていただくことにする。


金四郎は、江戸時代後期の天保年間 (1831-1845年) に江戸北町奉行を務め、
その名裁きは、時の将軍 徳川家慶 (とくがわ いえよし=第12代将軍) からも称賛されたという。
一説には、武士でありながら博徒のような彫り物 (入れ墨) をしていたといわれ、
後年、片肌脱いで桜吹雪の彫り物を見せて啖呵を切る姿が、芝居や映画・ドラマでおなじみになった。

※遠山の金さんの決めポーズ。
これは杉良太郎さん演じる金さん。
(テレビ朝日『遠山の金さん』より) 


金四郎が彫り物をしていたと記した幕府の公式記録はないものの、
伝聞資料には様々な記述があり、その絵柄や入れていた身体の部分にも諸説ある。
もともと、彫り物などなかったのではないかという説まであるが、金四郎の人物評として、
“人となり慧敏なれど小時すこぶる放蕩にして常に酒を飲み、娼家に寓し、市井無頼の徒と伍した” とある。
(旗本の家柄で) 優秀な人物であったが、若い頃にグレて城下の歓楽街に出入りし、やんちゃな連中とつるんでいたという意味だ。
彫り物も、その時に粋がって入れたとしても不思議ではない。
それを裏付けるように、金四郎は奉行になってから、しきりに着物の袖を気にして、めくれ上がるとすぐに下ろす癖があったそうだ。※注釈1
おそらく、肩からひじにかけて、立派な彫り物があったと思われる。


彫り物の有無はさておき、
金四郎が務めた江戸町奉行の職は、今でいえば、東京地裁の裁判長と警視総監と一部東京都知事の役割を合わせ持つ要職だった。
三権分立などという思想が入って来ていない時代なので、
人口100万人を数えるメガシティだった江戸を仕切るその権威はかなりのものだったに違いない。
そのため、将軍や幕府の重臣にも、直々に物申すことができた。

時に天保年間といえば、疲弊した幕府の財政を立て直すべく、
老中 水野忠邦 (みずの ただくに) による “天保の改革” が行われた時代。
幕府は、水野とその腹心の目付 鳥居耀蔵 (とりい ようぞう) が中心となって、綱紀粛正と奢侈禁止の政策を打ち出し、
北町奉行所や南町奉行所を通じて江戸中に布告した。

※日本史の教科書でお馴染みの
水野忠邦像。


これにより、
ちょっとでも華美な着物は着ることを禁止され、江戸っ子の大好きなお祭りも軒並み中止になった。
市中に200軒以上あった寄席や、江戸中心部にあった大きな芝居小屋※注釈2 も廃止の対象になった。
さらに、奢侈禁止の見せしめとして、
人気役者の七代目市川團十郎 (五代目市川海老蔵) が、私生活が派手過ぎるという理由で江戸十里四方処払い (追放刑) になったり、
人情本 (今でいう風俗小説) の作家たちが奉行所の取り調べを受けて罰せられたりした。

※五渡亭国貞 (歌川国貞) 画
『七代目 市川團十郎』


当初、金四郎や南町奉行の矢部定兼 (やべ さだのり) は改革政策に従っていたが、
厳しい弾圧で町人の生活が重大な影響を受ける反面、武士階層はその対象になっていないなどの矛盾点を指摘し、反対の立場をとるようになった。
ここに、改革推進派の水野・鳥居派と、改革反対派の遠山・矢部派の対立という構図が生まれた。
そんな中、鳥居の策略で、矢部が南町奉行を罷免されて伊勢桑名藩お預かりとなり、
矢部のあとに鳥居自らが南町奉行となって、改革政策を断行する構えを見せた。
(矢部は桑名藩でハンガーストライキの末、憤死してしまう)

一方の金四郎は、反対派の仲間がこのような迫害を受けても動じることはなかった。
将軍家慶の覚えがめでたかったせいか、
約3年にわたって北町奉行の職に留まった金四郎は、その間、改革の緩和を要求し続けた。
金四郎の心の中には、持ち前の反骨精神と義侠心がみなぎっていた。

これにより、いったん着手された改革の決定がくつがえることはなかったが、
すべての小屋が廃止予定だった寄席のうち、一部は、演目を娯楽性の薄い教育的なものに制限して営業が許された。
同じく芝居小屋も、中村座・市村座・守田座 (河原崎座) など大手の三座が、
堺町・葺屋町 (現在の日本橋人形町付近) や木挽町 (現在の歌舞伎座付近) といった江戸の中心部から、
郊外の猿若町 (現在の浅草6丁目付近) に移転することで廃止を免れた。

金四郎はこれ以外にも、
天保の改革の柱であった株仲間の解散※注釈3 や人返し令※注釈4 に反対し、
あくまで改革に抵抗する立場をとった。
しかし、またもや鳥居の裏工作で、金四郎は北町奉行の職を解かれて大目付の職に異動になる。
名目は栄転であるが、大目付は形式的な職で、一種の窓際族への左遷人事であった。
金四郎は、老中への意見進言の道を絶たれてしまった。

※鳥居はドラマでは悪役として
登場する。
写真は金四郎役 西郷輝彦さん (右)
鳥居甲斐守役 金田龍之介さん (左)。
(TBS『江戸を斬る』第二部より)


その後、幕府内で天保の改革が失敗と判断されるや、水野と鳥居は内紛の末、相次いで失脚した。
これにより、金四郎は今度は南町奉行として江戸町奉行に復帰を果たした。
(南町奉行は7年間務め、意外にも北町奉行だった期間より長い)
江戸時代を通じて、北町奉行と南町奉行の両方を務めたのは、金四郎を含めて二人しかいない。

南町奉行となった金四郎は、
一部を除いて閉鎖されていた寄席をすべて復活させたり、解散させられた株仲間の再興を試みるなど、
天保の改革で活気が消えてしまった江戸を復興させようと尽力した。
若い頃に市井で庶民と交流が深かった金四郎は、
民間を弾圧することで綱紀粛正を図ることが、文化や経済活動を衰退させることを予測でき、改革に反対したのだろう。


報復をおそれず身体を張って寄席や芝居 (歌舞伎) を守ってくれたことに感謝して、
それ以来、芝居の世界では、金四郎を庶民の側に立って悪を懲らすヒーローとして描くようになったのである。

※初代 歌川広重画
『名所江戸百景 猿わか町よるの景』



【注釈】
1. 時代考証家 稲垣史生氏の説による。

2. 歌舞伎は、江戸時代にはまだ一般的な呼称ではなく、狂言や浄瑠璃など、広義の演芸と一緒に芝居として上演されていた。

3. 株仲間とは、幕府に税を納めて商売の独占を認められた商工業者のカルテル組織。
天保の改革で、商品価格を下げるために解散させられたが、かえって市場の混乱を招いて景気が後退した。

4. 天保の飢饉などの影響で農地を捨てて江戸に流入する農民が増えたため、年貢の基となる農業生産が減少するのを防ごうと、農村からの江戸移住に厳しい制限を設けた。
しかし、効果は疑問視されている。