【追悼】松本零士先生 | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


このところ、日本のアニメ界を牽引してきたような方たちの訃報が相次いでいるが、
先日、漫画家の松本零士先生が85歳で亡くなった。

松本先生は、私ごときが言うまでもなく、
『銀河鉄道999』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』などの作者として広く知られ、
アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の制作では監督を務めたほか、キャラクターやメカのデザイン設定に深く関わった。
名実ともに、日本を代表する漫画家の一人だった。

※故 松本零士先生 (NHKニュースより)


松本先生は先述の作品のほかにも、
『光速エスパー』『男おいどん』『新竹取物語1000年女王』など数々の作品を世に出しているが、
“戦場まんが” と呼ばれるオムニバス作品集も残している。
これは、主に1970年代に『少年サンデー』や『ビッグコミックオリジナル』に不定期連載されたもので、
コミックになって『戦場まんがシリーズ』として出版されてから、私も愛読させていただいた。

このシリーズで取り上げられているのは、第二次世界大戦の太平洋とヨーロッパの戦場。
いずれも、日本軍やドイツ軍といった敗者の側から描かれている。
そのため、単なる戦争アクション物ではなく、敗北した側の悲哀が込められていて、
短編ながら、戦争のむなしさがずっしりと胸に迫る読後感を味わえる。



日本が連合国と戦った太平洋戦争 (大東亜戦争) の後期、松本先生は小学生だった。
戦争が激しくなると、母方の親戚がある愛媛県の新谷 (にいや) 村に疎開した。※注釈参照
しかし、そこでも食料事情はあまりよくなく、主食の米はなんとかなるが、肉などたんぱく質の乏しい状況だった。
そこで松本少年は、友達と野山を駆け巡って遊ぶかたわら、
蜂の巣から蜂の子をとったり、川で魚をとったり、自作の罠で野鳥をとったりして食べた。
たくさんとれて、疎開先の親戚の家に持って帰ると、みんなに喜ばれたという。

疎開先といっても戦争と無関係だったわけではなく、通学途中などに空襲警報が鳴ると、松本少年は山へ避難した。
頭上高く通過していくB29などのアメリカ軍機を目撃することも度々だった。
そんな松本少年のお父さんは、陸軍航空隊のベテランパイロットで、若い飛行兵たちの教育係も務めていた。
戦争中はタイやフィリピンなど南方戦線を転戦し、戦友の大半が戦死していく中、終戦で九死に一生を得て復員した。

戦後のある日、松本少年がお父さんに
「いつか、アメリカをやっつけんといかん」
と言ったところ、お父さんは
「バカ!そんなこと言うから戦争になるんじゃ、何人死んだと思う。二度と戦争はやってはいかん」
と、松本少年を叱ったそうだ。

戦後、旧日本軍の飛行兵が、自衛隊や民間航空会社のパイロットになることが多かった中、
松本先生のお父さんは、戦争で死んでいった多くの部下のことを思い、再び操縦桿を握ることはなかったという。
少年時代の松本先生の自慢だったこのお父さんの影響が、戦場まんがシリーズに反映しているのは間違いないと思う。

※戦場まんがシリーズ第1作『スタンレーの魔女』より。


戦場まんがで、主人公の兵士とともに重要な位置を占めているのが、登場する兵器である。
それは、主人公が乗る戦闘機であったり、戦車であったり、所持している銃であったりする。
鉄のかたまりに過ぎないそれらの兵器は、
主人公の操作によって血が通い、感情を持っているかのように作動する。
そして、主人公の “相棒” として熾烈な戦闘を戦い抜いていく。
こういった描写は松本先生の得意とするところで、丹念に描き込まれたメカに先生の思い入れを感じる。
これは、後の『宇宙戦艦ヤマト』などの作品にコンセプトが受け継がれていく。


壮大な戦いを描いた作品でも、勝った側にも敗れた側にも視点を置き、どちらの存在も否定しない。
物語はフィクションであっても、死んでいった者たちへの鎮魂の気持ちが込められているように思えた。

世界の漫画・アニメ史上に大きな足跡を残した松本先生に、
心から哀悼の意を表したい。



【注釈】
松本先生は昭和13年 (1938年) 福岡県久留米に生まれたが、父親の仕事の関係で4歳から6歳までを兵庫県明石で過ごした。
戦後は福岡県の小倉に移り住み、その後上京して漫画家となった。


【おことわり】
本文中の松本先生のエピソードに関しましては、NHKニュースなど既存メディアの情報を参照させていただきました。