泥沼の戦い | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。

最近、日本のコロナ感染者が激減し、
いよいよ終息も近いかと期待していたところ、
感染力の強い新たな変異種の感染者が成田空港で発見され、再び緊張が高まっている。

新型コロナウイルスがニュースになり始めて、もう2年近くになるだろうか。
人類とウイルスのあくなき戦いだ。
不自由な生活が長く続いているので、うんざりした空気が世の中を覆っている。

こういう時、
ちょっと年配の人は
「いつまで続く泥濘 (ぬかるみ)ぞ」
と言ってぼやいたりする。

この表現は、
小説やドラマの中に台詞として登場することがあるので、
知っている人も多いのではないだろうか。
実はこの表現は、次の歌の歌詞から広まったものだ。

昭和7年
『討匪行』(とうひこう)
作詞:八木沼丈夫
作曲:藤原義江

(一番)
どこまで続く  泥濘ぞ
三日二夜を  食もなく
雨降りしぶく  鉄かぶと



もう一つある。

昭和13年
『涯なき泥濘』(はてなき ぬかるみ)
作詞:徳土良介 
作曲:能代八郎

(一番)
行けども行けども  はてしなく
いつまで続くか  泥濘よ
銃執る我らは  ひるまねど
声なき愛馬が  いたわしや



『討匪行』の “どこまで続く泥濘ぞ・・・” と、
『涯なき泥濘』の “いつまで続くか泥濘よ・・・”
の歌詞が、混同されてしまっているフシはあるが、
二つの歌はともにヒットしたので、その歌詞は当時の人々の記憶に残った。
これがルーツになっている。

※昭和15年 (1940年) の『重い泥靴』という歌にも、“どこまで続く泥濘ぞ” という歌詞が出てくるが、ここでは割愛する。


これらの歌は、いわゆる軍歌である。
当時の中国大陸は、雨が続くと泥沼化する地帯が多かったらしく、
中国戦線を歌った軍歌には、泥濘が登場するものが多数存在する。
中国大陸での戦いは、文字通り “泥沼の戦い” だったわけだ。

『討匪行』のできた昭和7年 (1932年) といえば、
前年に満州事変が勃発し、日本軍の大陸侵攻が本格化した頃。
『討匪行』は、日本軍に抵抗を続ける匪賊 (抗日ゲリラ) 討伐のため、満州 (中国東北部) の荒野を征く部隊を歌ったもので、
降り続く雨でぬかるんだ大地や、携行する食糧も乏しくなった夜の寒さに耐えて戦う討伐隊の心境が淡々と綴られている。



もう一方の『涯なき泥濘』は昭和13年 (1938年) に発表されたが、
この頃は、前年に発生した盧溝橋事件 (日本軍と中国軍の軍事衝突) が日中両国の全面戦争に発展し、戦火が大陸全土に拡大していた。
歌の内容も、中国大陸を奥地へ奥地へと攻め進む歩兵部隊を描いているが、
敵軍ばかりでなく、行く手を阻む泥濘との戦いが続く様子が、ややコミカルかつ厭戦的なタッチで歌われている。




発表したレコード会社 (テイチク) は、
厭戦的と思われては、軍部の検閲に通らないと判断してか、国威発揚的な歌詞を取って付けたように最後 (五番) に加えてある。
しかし、歌全体から受ける印象は、
遠い異国の地で、いつ終わるともしれぬ戦いに疲れた兵士たちが、束の間の休息で故郷を想うなど、
前線の名もない兵士たちの苦労を代弁する歌になっている。

明日をも知れぬ身の兵士たちにとって、
自分たちの気持ちを代弁してくれる歌は、喝采をもって迎え入れられたであろう。



80数年前の前線の兵士たちと、コロナ禍に直面している現代の人々。
降りしきる雨の中、はてしない泥濘に足をとられながら進むような状況は、ともに共通している。

ここは、
自分を鼓舞するようなお気に入りの歌でも歌いながら、
やがて困難を克服する日が必ずやって来ることを信じて、頑張ろうではないか。



【注釈】
『討匪行』の作詞者 八木沼丈夫は、関東軍の宣撫官 (占領地の住民へのプロパガンダを担当する職) をしていて、参謀部より作詞を委嘱された。
八木沼は軍属でありながら、アララギ派の歌人でもあったので、その文語調の歌詞は、勇ましさの中にも “官製軍歌” とは思えぬ詩的な流麗さをもっている。

『涯なき泥濘』を歌った小野巡は、警視庁の巡査だったが、銭湯で歌っていたところをスカウトされて歌手になった。
芸名の巡 (めぐる) は、巡査だったことにちなんだもの。