七夕雑感 | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。

7月7日は七夕。
願い事を書いた短冊を笹の葉に吊るし、
星に祈りを捧げる。

星々の中で、天の川を隔てて一際明るく輝くのが、織女星 (こと座のベガ) と牽牛星 (わし座のアルタイル) だ。

※織女星ベガ (右上) と牽牛星アルタイル (左下)。
(AstroArtsサイトより)


古代中国の伝説によると、
星の世界で機織りをしていた天帝の娘 (織女星) と、農耕を営んでいた働き者の青年 (牽牛星) は、天帝の計らいにより夫婦になった。
ところが、二人は結婚すると、仕事をサボって遊んでばかりいた。
天帝は怒って、天の川をはさんで二人を引き離してしまった。
しかし、二人があまりにも悲しんだため、
年に1度だけ、7月7日の夜に逢うことを許した。

これが、一般的に知られた七夕のストーリーだが、
民間伝承だけに、時代や地域によって内容に変遷が見られ、
6世紀中国、六朝の梁 (502~557年) の時代に、現在とほぼ同じ形になったとされる。

この物語に、元々あった機織りや裁縫の上達を祈る “乞巧奠 (きっこうでん)” という行事が結び付き、
中国の南北朝時代 (439~589年) になると、
7月7日の夜、7本の針に彩糸を通して天に祈願するという現在の七夕の原型とみられる行事に発展したという。


七夕が日本に伝わったのは、奈良時代 (710~794年) といわれている。
万葉集には、七夕伝説にちなんだ和歌がいくつもあり、
織女星と牽牛星の物語が、この時かなり日本に浸透していたことがうかがえる。
また、
この時代、前述の乞巧奠は宮中行事として行われており、
平安時代 (794~1192年) にかけて、宮中や貴族の間で、7月7日に行われる乞巧奠と、織女と牽牛の伝説が習合した七夕の風習が日本にも根付いていったと思われる。

なお、“七夕” を “たなばた” と読ませるようになったのは、
日本に以前からあった機織りの器具を棚機 (たなばた) といったことに由来するという説がある。(諸説あり)

江戸時代 (1603~1868年) になると、
幕府が七夕を五節句の一つに定めたことから、庶民の間にも急速に広まった。
現在のように笹に願い事を書いた短冊を吊るすようになったのも、この頃だといわれている。

※豊原周延 画『江戸砂子年中行事 七夕之図』


古代中国に起源を発する七夕が、
日本に伝わり定着するのに、何百年もかかったことになる。

講釈はともかく、
これが現代だと、その伝わる速さは昔の比ではない。
2019年12月、中国で最初に発生が確認された新型コロナ感染症はまたたく間に拡散し、
翌年春頃には、ほぼ世界中に広がってしまった。 
大量の人員を高速で運べる交通網の進歩が、コロナウイルスという “招かれざる客” まで運んでしまったのだ。

このように、技術の進歩は、良い面と悪い面を常に合わせ持っている。
今では、世界中に普及したインターネットも、
それこそ一瞬で世界各地へ情報を送ることができるが、
これが悪用されれば、フェイクニュースや悪意のデマも、あっという間に世界を駆け巡る。
また常に、サイバー攻撃の脅威にもさらされることになる。

コロナワクチンに副反応があるように、
便利に見える技術の進歩にも、デメリットが付きまとうということだろう。
あまり悪い面ばかりが広まると、
そのうち、また天帝様が怒って、
天の川のように、世界の境を閉ざしてしまうのではないだろうか。