加藤隼戦闘隊 ~必ず勝つの信念と~ | サト_fleetの港

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広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


昭和16年(1941年)4月、

日本陸軍航空隊が開発を進めてきた新鋭戦闘機 “一式戦闘機”(一式戦)が完成した。

一式戦は、エンジンに海軍航空隊の零戦と同じ、強力な中島飛行機製 空冷星形航空機エンジン(ハ105)を搭載。
それまでの主力機 九七式戦闘機(九七戦)が、車輪が出たままの固定脚機だったのに対し、
離陸後車輪を翼に収納できる引っ込み脚にした。
これにより空気抵抗を低減させ、高速での飛行が可能になった。
また、落下燃料タンク(増槽)を翼下に装備することで、航続距離を飛躍的に伸ばした。
そのほか、
数々の改良を重ねて誕生した一式戦は、格闘戦を得意とする九七戦の軽快な運動性能を受け継ぎながら、より強力な近代戦闘機として日本陸軍の期待を担っていた。

一式戦は後に、日本軍の戦闘機としては初めてニックネームをつけられ、
“隼”(はやぶさ)と命名される。



陸軍一式戦闘機『隼』(一型)
最高速度500km/h
航続距離3000km(最大)
武装7.7mm機銃 ×1、12.7mm機銃 ×1
(後に12.7mm機銃 ×2)


この隼の性能は、
来るべき南方進出の際に遭遇するであろう
連合軍の戦闘機に対抗するのに必要不可欠なものであった。

完成した隼は、随時実戦部隊に配備されたが、
その一つに、当時中国の広東に駐留していた飛行第64戦隊がある。
第64戦隊は、九七戦を装備していた頃から、
武漢攻略作戦や南支(華南)方面の航空撃滅戦などを通じて中国空軍と戦い、勝利してきたのをはじめ、
ノモンハン事件※注1 の際は、ソ連(現在のロシア)空軍と戦ってこれを圧倒するなど、輝かしい戦歴を持つ部隊であった。

※日本陸軍航空隊の九七式戦闘機
隼が登場するまで陸軍の主力機だった。

※ソ連空軍の主力戦闘機 I-16
中国空軍にも多数配備されていた。


この第64戦隊の戦隊長 加藤建夫(かとう たてお)少佐は、当時としては長身の170cm超の体格で、
第64戦隊の前身となる部隊で中隊長を務めていた頃から、複数の撃墜機数を誇るエースパイロットであった。

加藤少佐のモットーは、
“率先垂範・指揮官先頭” で、訓練でも実戦でも、自分から真っ先に行動して範を示す隊長であった。
任務には厳格だったが、部下想いでユーモアがある加藤少佐は、隊員たちから慕われ信頼されていた。
また、カメラが趣味で、前線でもローライフレックスやコンタックスなどのカメラを持ち歩き、隊員たちの日常をよく撮影していたという。

※中隊長時代の加藤建夫
(1938年 春頃)


当初、隼を受領した第64戦隊の隊員たちは、
以前の九七戦とは勝手の違う新鋭機の操縦におっかなびっくりだったが、
加藤少佐が率先して隼を駆って模擬空中戦を行うなど、猛訓練を開始した。
こうして第64戦隊は、加藤少佐の熱心な指導と隼の高性能が相まって、
さらなる精鋭部隊へと発展していく。


太平洋戦争開戦が迫る12月3日、
加藤少佐指揮の第64戦隊の隼35機は、
その航続力を生かし、駐留していた中国の広東から長駆して仏印(フランス領インドシナ=現在のベトナム)のフコク島ズォンドン基地に移動した。



そして、12月8日の開戦にあわせて実施された陸軍のマレー半島上陸作戦では、
ズォンドンとタイのナコンの基地を拠点として、
陸軍機としては異例の長距離洋上飛行を行い、悪天候の中、上陸部隊を乗せた輸送船団の上空援護にあたった。

この困難な任務をこなして帰還した後も、
第64戦隊は、休む間もなくマレー半島に展開する連合軍航空部隊に対する攻撃を開始。
9日に行われたペナン島付近での空中戦とアエルタワル飛行場への攻撃で、
イギリス軍のブレニム(ブレンハイム)軽爆撃機1機を撃墜、5機を地上撃破し、日本側は損害なしという戦果をあげた。

翌10日にも爆撃隊とともに出撃した第64戦隊は、
天候不良で爆撃機が引き返した後も単独でペナン島の基地を攻撃し、イギリス軍機10数機を地上撃破した。

※イギリス軍のブレニム軽爆撃機
(ドイツ軍呼称 ブレンハイム)


その後、日本軍が占領したばかりのマレー半島のコタバルに前進した第64戦隊は、
進撃を続ける地上部隊支援のため、引き続き連合軍に対する航空撃滅戦を実施した。

12月22日、
地上部隊の進路上にあるペラク川に架かるクアラカンサル橋が敵の爆撃で破壊されるのを防ぐため、
加藤少佐は飛行師団司令部の命令を待たず、イギリス空軍の拠点クアラルンプール飛行場を攻撃。 
第64戦隊の隼23機は、迎撃してきたイギリス空軍のバッファロー戦闘機12機と交戦し、1機を失うも5機を撃墜破した。
これは、第64戦隊とイギリス空軍の戦闘機隊の初めての空中戦であった。

※バッファロー戦闘機(アメリカ製)
アメリカ、イギリス、オランダなど各国で使用。


クアラルンプール飛行場攻撃は、加藤少佐の独断によるものであったが、
上層部から注意されるどころか、
その臨機応変な状況判断に対し、陸軍の南方軍司令部より祝電を受けた。


年が明けた昭和17年(1942年)1月
マレー半島を破竹の勢いで南下する日本軍は、イギリス軍の東洋における一大拠点シンガポールに迫っていた。
第64戦隊も、拠点をマレー半島南部のイポーに移し、連日 爆撃隊を護衛するなどして、シンガポールのイギリス軍基地空襲に参加した。

しかし、
いずれの空襲の際も、シンガポール防衛のため増派されたイギリス軍の新鋭ハリケーン戦闘機は姿を見せず、
その撃滅を企図していた加藤少佐にとっては不本意だった。
 
そして1月20日、
ついに第64戦隊は、シンガポール上空でハリケーン戦闘機隊と遭遇し空中戦を交える。
加藤少佐自ら12.7mm機銃の一斉射で1機を撃墜するなど、敵の指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜。
第64戦隊の損害は1機だった。

※イギリス軍のハリケーン戦闘機


シンガポール陥落が目前となった2月、
日本軍は、蘭印(オランダ領インドシナ=現在のインドネシア)方面において、
スマトラ島パレンバンの油田地帯占領のため、陸軍落下傘部隊を投入しようとしていた。

この作戦にともなう蘭印方面のオランダ、イギリスなど連合軍航空兵力の撃滅と、落下傘部隊を乗せた輸送機の護衛に、第64戦隊は他の飛行部隊とともに参加。
飛行部隊全体の指揮官を任された加藤少佐は、
ここでも早々にイギリス空軍のハリケーン戦闘機を撃墜するなどの活躍を見せ、落下傘部隊の援護に成功。
日本軍のパレンバン占領に大きく貢献した。

※『神兵パレンバンに降下す』
(鶴田吾郎 画)より。


パレンバン攻略作戦が終了するや、
第64戦隊は続いてジャワ島方面の航空撃滅戦に従事し、陸軍のジャワ上陸作戦を援護した。
これらのめざましい活躍に対し、
加藤少佐は、多くの感状(感謝状)を与えられるとともに中佐に昇進する。


ジャワ、スマトラ方面の作戦が一段落した3月下旬、
第64戦隊はタイのチェンマイに転戦。
今度は、ビルマ(現在のミャンマー)攻略のため展開中の日本軍地上部隊を援護するべく、
マグウエ、アキャブなどビルマに残された連合軍航空基地の攻撃に連日出撃した。

ビルマ戦線では、イギリス空軍やアメリカ義勇軍航空隊 “フライングタイガース”※注2 などとの激しい戦いが待っていた。
まさに、獅子奮迅の奮戦を見せる第64戦隊であったが、
戦闘意欲旺盛な加藤中佐は、任務から帰還した戦闘機隊に、その日のうちに再度出撃を命じることもあった。
さすがに若い隊員たちも疲労の色を隠せなかったが、
皆の先頭を切って一番機で出撃していく加藤中佐を見て、隊員たちも気力を奮い立たせてあとに続いた。


激戦が続く中、第64戦隊にも少なからぬ損害が出ていた。
中でも、4月8日のローウィン飛行場攻撃の際は、
レーダーにより日本機の来襲を察知したフライングタイガースのP40戦闘機とイギリス空軍のハリケーン戦闘機に待ち伏せ攻撃を受けて隼4機を失った。

※隼の天敵フライングタイガースのP40


この時、加藤中佐の腹心の部下である第3中隊の中隊長や、ノモンハン以来のベテラン搭乗員ら4名が戦死したが、
人一倍部下想いの加藤隊長がこれに悲しまないはずがなく、「俺の責任だ」と一時は落ち込んでいた。
しかし、
翌々日には報復のため、加藤中佐機の先導で、
難しいとされる夜間航法により山岳地帯を低空で飛行して、ローウィン飛行場への早朝奇襲攻撃を敢行。
駐機中のP40戦闘機20機以上を機銃掃射で破壊した。



5月になると、日本陸軍航空隊はビルマのトングーに拠点を移した。
一方、連合軍は、日本軍が占領したアキャブ飛行場奪還のため、連日 偵察機や爆撃機を飛来させていた。
第64戦隊は、その都度迎撃のため出撃したが、
ある日、敵爆撃機を追撃してチッタゴン上空に差しかかった時、編隊の一機が対空砲火で撃墜されてしまう。
幸い搭乗員は落下傘で脱出したのが見えたため、加藤中佐はアキャブに帰還して、特務機関と現地の義勇軍にその捜索を依頼した。

第64戦隊は、このあと拠点のトングー基地に帰る予定だったが、
加藤中佐は捜索の情報を待つため、部隊とともに、前進基地のアキャブに留まることにした。
そして翌日、
加藤中佐が部下の安否報告を待っていたところ、イギリス軍のブレニム軽爆撃機が不敵にもただ一機で来襲し、攻撃を加えてきた。

加藤中佐はただちにピスト(指揮所)から走り出て
「(プロペラを)回せ、回せぇ!」
と大声で整備兵に指示するや、起動した愛機の隼に飛び乗り離陸した。
部下の4機もこれに加わり、逃げる敵機を追った。
5機の隼は、ベンガル湾上空で敵機に追い付くと、交互に機銃で射撃を加えた。

すると、敵機の旋回機銃から反撃の射撃を受け、2機の隼が被弾損傷して離脱してしまう。
これを見た加藤中佐は、猛然と敵機に肉薄すると、渾身の猛射で機銃弾を浴びせた。



敵機は火を噴き、少しの間ふらつきながら飛んでいたが、やがてベンガル湾に墜落して水しぶきをあげた。
するとその時、
射撃を終えて機首を引き起こしにかかった加藤中佐機の翼からも火が出たかと思うと、みるみる翼全体に広がった。
最後に敵の旋回機銃が放った弾丸が命中したのだ。

加藤中佐は別れを告げるように、ちらりと振り返って後続の2機の僚機を見たようだった。
そして、上昇しつつあった加藤中佐機は、
くるりと反転するとまっ逆さまに降下し、海面に突入した。



大きな水柱が上がるとともに、漏れた燃料に引火して、海上にメラメラと炎がたちのぼった。
残った2機の僚機は、
加藤中佐の死を悼んで、その上を何回も何回も旋回していた。※注3

敵と刺し違えるかのような壮烈な最期を遂げた加藤建夫中佐、この時38歳。
昭和17年(1942年)5月22日のことであった。


“必ず勝つの信念と、死なば共にと団結の…”
とは、
後に軍歌『加藤隼戦闘隊』として有名になる
第64戦隊の部隊歌の一節(三番)である。
苦しい戦いの中にあっても、
隊員たちは、加藤中佐とともにこの歌を歌って士気を鼓舞して戦い抜いてきた。

その不屈の精神は、加藤中佐亡きあとも第64戦隊の隊員たちに受け継がれ、
部隊は終戦まで、圧倒的多数の敵機と互角にわたり合い、連合軍から恐れられた。

※性能を向上させた隼三型(最終型)
隼は改良を続けて終戦まで使用された。


日本国内では、
加藤中佐は死後、“軍神” と讃えられ、
その活躍を描いた映画が制作されて人気を博した。
そして、加藤中佐のエピソードは、戦後も広く語り継がれた。

加藤中佐は、第64戦隊の隊員のみならず、
多くの人々の心の中に
生き続けたのである。


※映画で加藤中佐を演じた俳優たち
上段:藤田 進(1944年『加藤隼戦闘隊』より)
下段:佐藤 允(1969年『あゝ陸軍隼戦闘隊』より)


■軍歌『加藤隼戦闘隊』(飛行第64戦隊歌)
作詞:田中林平 准尉
作曲:原田喜一 軍曹、岡野正幸 軍曹(四番)
※階級は制作当時。



【注釈】
1. 昭和14年(1939年)5月、満州国とモンゴルの国境紛争に端を発した日本軍とソ連軍の軍事衝突。
機械化の遅れた日本陸軍は地上戦で苦戦したが、航空戦ではソ連空軍を駆逐する活躍を見せた。

2. 中国空軍に所属するアメリカ人義勇兵部隊。
日米開戦前、アメリカは義勇軍の名目で戦闘機とパイロットを中国に送り込んで支援していた。
この部隊は、太平洋戦争が始まりアメリカが正式に参戦した後もしばらくそのままの組織で運用されていたが、
1942年7月に解散し、その任務はアメリカ軍の第10空軍に吸収された。

3. 加藤中佐戦死の模様は、ともに最後に出撃した第64戦隊 安田義人曹長の手記による。