戦場の金メダリスト | サト_fleetの港

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ブログで取り上げる話題はノンセクションです。
広く浅く、幅広いジャンルから、その時々に感じたことを “おとなの絵日記” のように綴っていきます。


昭和7年 (1932年) 8月14日、

第10回オリンピック・ロサンゼルス大会最終日。
この日、当時 “五輪の花” と呼ばれていた馬術競技の会場で、大きな拍手と歓声で讃えられた一人の日本人選手がいた。
陸軍の騎兵連隊に所属する西竹一中尉 (当時) である。

西中尉は、馬術競技の「大障害飛越」個人部門に出場し、愛馬ウラヌスを駆って見事優賞、金メダルに輝いたのだ。

※ロサンゼルスオリンピックで
競技中の西中尉とウラヌス


東京・西麻布の華族 西男爵家に生まれた西中尉は、陸軍に進むと騎兵の道を選び、馬術競技を通じて海外渡航歴も豊富で、英会話も堪能だったため、インタビューにも英語で答えた。

その時彼が、
「We won.」(私たちは勝った)
“I”ではなく“We”つまり、自分一人の力ではなく、愛馬ウラヌスとともに勝利を勝ち取ったと語ったことが、さらに地元アメリカの人々に絶賛され、
エルメスの乗馬ブーツに日本人離れしたルックスといったダンディーさもあり、
“バロン・ニシ” (西男爵) と呼ばれた。

※愛馬ウラヌスと西中尉 (当時)


しかし、オリンピックでの大人気とは裏腹に、陸軍に戻ってからの西中尉は冷遇された。
プライベートで、クライスラーやハーレーダビッドソンを乗り回すといった彼の奔放さや欧米趣味が、国粋化に走る武骨な軍部に警戒されてしまったのだ。
そのため、しばらく満州 (中国東北部) の奥地の部隊に配属されることになる。


そんな彼が、戦史に名前を残す時がやってきた。
昭和19年 (1944年) 6月、
騎兵部隊から機械化された戦車第26連隊の連隊長となり、階級も中佐となっていた西中佐に、硫黄島防衛の任が下された。

硫黄島は、その頃すでにサイパン島などマリアナ諸島を攻略し、フィリピンに迫っていたアメリカ軍が次に必ず上陸してくると予想された東京都下の島であった。
ここを占領されれば、マリアナ諸島の基地から飛来していたB29爆撃機のみならず、
爆撃機より航続距離の短いP51などの戦闘機も、硫黄島を拠点にB29を護衛して飛来することが可能になり、ますます日本本土の防空が難しくなる。

そして、アメリカ軍の次なる攻略目標である沖縄、さらに南九州や関東への来襲を少しでも食い止め、防衛体制構築の時間を稼ぐためにも重要な拠点であった。

※映画「硫黄島からの手紙」に
描かれた硫黄島守備隊

(栗林中将役は渡辺謙さん)



硫黄島には、西中佐と同じく騎兵出身の栗林忠道中将が、一足早く守備隊長として赴任していた。
栗林中将も、駐在武官としてアメリカなどでの海外経験があり、通常、陸軍の将校以上が軍刀を身に付けていたのに対し、
彼は、アメリカ駐在時代に贈られたパールグリップのコルト・ガバメント (45口径のオートマチック拳銃) をホルスターに差して腰に下げていた。

栗林中将もまた、このような欧米通なところを軍上層部に嫌われ、硫黄島守備隊長に廻されたという説もある。
そんな栗林中将は、着任した西中佐を舶来のウィスキーで歓迎したという。


西中佐は硫黄島に赴く前、東京の馬事公苑を訪れた。
高齢のため厩舎で余生を送っていたウラヌスに会うためだった。
その時ウラヌスは、西中佐のブーツの足音を聞くと、狂喜して顔をすり寄せてきたという。
西中佐は、硫黄島にいる時も、ウラヌスから切り取ったたてがみを肌身離さず携えていたと伝えられる。


※映画「硫黄島からの手紙」で
西中佐を演じた伊原剛志さん
(映画では愛馬と一緒に硫黄島に
いるが、これは事実とは違う)


昭和20年 (1945年) 2月、
アメリカ軍は、わずか24k㎡ほどの硫黄島に11万の兵力で攻め寄せてきた。
守る日本軍は約2万、地下壕を島の縦横に巡らせ、全島を要塞化していた。

映画でも描かれていたような地獄の戦いが、このあと約1ヵ月にわたって続けられた。
徹底した持久戦を展開する日本軍に、アメリカ軍は苦戦を強いられ、最終的に日本軍を上回る戦死傷者を出してようやく硫黄島を占領した。


※摺鉢山に星条旗が揚がったが、
日本軍のゲリラ戦は執拗に続いた


硫黄島守備隊の最期であるが、司令部が全滅してしまったため、はっきりした状況はわかっていない。
栗林中将も西中佐も、地下壕で自決したとも、最後は壕を出て万歳突撃を敢行して玉砕したとも言われているが、それを証言できる生存者がいないため、確定できていない。
(映画で描かれている最期はフィクションである)

しかし、ここに、長く伝説のように語り継がれてきた逸話がある。
それはこうだ。

日本軍守備隊の司令部を包囲したアメリカ軍は、数少ない捕虜からの情報で、守備隊の中にロサンゼルスオリンピックで活躍した西竹一中佐がいることを知る。

西中佐のオリンピックでの勇姿が記憶に残るアメリカ軍将兵は、これを死なせるにしのびず、再三にわたって拡声器を使って、
「バロン・ニシ、降伏してください。私たちはあなたを死なせたくない。バロン・ニシ!」
と、最後は涙声になるまで呼び掛け続けたという。

しかし、西中佐が投降することはなく、やがてアメリカ軍が火炎放射器による壕内への最終攻撃を開始すると、壕から飛び出して突撃して来る何人かの日本軍将兵がいた。
アメリカ兵は、手榴弾を浴びせ、これを倒した。
その中に、西中佐もいたのではないかというのである。

ことの真偽は、もはや永遠の謎であるが、
それだけ、アメリカ軍の間でも西竹一中佐のオリンピックでの活躍が印象に残っていたことを物語るエピソードと言えるだろう。


このように、騎兵部隊の兵士と軍馬の関係は、西中佐がウラヌスと今生の別れを惜しんだ様子からもわかるように、
“パートナー” “戦友”と呼ぶにふさわしいものである。

戦時中、私の伯父 (父の兄、故人) は騎兵ではなかったが、部隊に軍馬がいて一緒に戦地を転戦した。
その伯父が、軍馬は戦死者の亡骸を絶対に踏んだり跨 (また) いだりしないと言っていたのを思い出す。

だから、騎兵出身者や軍馬と関わりが深い部隊にいた兵士は、
戦後も、
絶対、馬肉を口にしなかった。