境内に差し掛かったとたん、えもいわれぬ清涼な香気が鼻をとらえた。
一切甘さのない、凄烈な高貴。
男は見た。
薄闇の中、菊人形たちが繚乱の菊花とともに、淡い光源に浮かび上がっていた。
さまざまな菊の花々を衣にまとい、人形たちは芝居を続ける。
その身は、開きかけの蕾で満ちている。
またある日、男は宵闇の中、人気のなくなったその人形小屋で、
おそらく菊師であったのだろう数人のおとこたちが酒を酌み交わしているのを見た。
闇は深く、揺れる蝋燭の灯は影をまとい、人形たちの表情も変化する。
なかから一人、機嫌よく歩み出てくるものがあった。
男は知らず足を止め、そのおとこの様子をながめた。
役者さながらの美形である。血色の好い頬が、白い肌に映える。
拝殿横に供えられている酒をかかえて、また小屋の中に戻って行った。
菊花は、胸を刺すほど匂い立っている。
大風が吹き、豪雨があり、少しばかり季節が深まった。
夜半、男がそこを通りかかったとき、人形小屋はすでに無かった。
嵐で吹き飛んだ菊花の痕跡と、変色し枯れ落ちた花の残骸が片隅に寄せ集められていた。その腐臭が鼻につく。
こころもとない外灯をたよりに歩いていると、何かが足に当たった。
男は見た。
それは菊人形の残骸。生花の衣をまとっていた命無き人形の頭。
見下ろして、目を見張った。
その頭は、泥に汚れた木偶人形なのだがその顔は。
酒を抱えていた、あのおとこのものであった。
花の命を共有していたのか。あの夢幻の美しさよ。
無残にも地に返ることもなく打ち捨てられたか、忘れ去られたか。
男は、頭を拾い上げた。
手拭いで泥をふき取り、灯にかざして目を細めた。
そして。
頭を。
道具袋に収めると歩き出した。
男の口の端が、ゆっくりと楽しそうに上がった。
by.Purple