この国の精神  武士道(3) | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神  武士道(3)

秋 隆三

 

  新型コロナの第7波がものすごい勢いで広がっている。娘も感染したが、一緒に住んでいる家族の誰も感染していない。何とも不思議な感染症である。ウイルスが変異し、特異な受容体に限定されるのかもしれない。もはや、このウイルスの感染を止めることはできないだろう。死亡率が0.2%程度なので、インフルエンザよりもやや高い程度である。ほとんどが高齢者か何らかの既往症のある人のようだ。高齢者は、致し方ない。溶連菌感染症でも死ぬ確率が高くなるし、日和見菌による肺炎の確率も高いのだから、当然と言えば当然なのだろう。私は、1ヶ月前に、溶連菌咽頭炎でひどいことになった。コロナを疑ったが、検査ではコロナ陰性、溶連菌陽性であった。コロナワクチンを何度も打っていると、自然免疫力が低下するのではないだろうか。免疫システムに何らかの影響を与えているのではないかと、少々不安になる。

 

  さて、ウクライナ戦争はどうなっているのだ。ほとんど情報が入ってこない。何せ、世界のメディアから従軍記者が派遣されていないのだから、状況がわからないのは当然である。ウクライナから国外へ脱出した人数が1000万人を超えているそうである。ソ連崩壊時にも1000万人ぐらいが国外へ出ているということだから、1991年以後の30年間で2000万人を超える国民が国を捨てたことになる。こんな国が歴史上あったろうか。ロシアから逃げ出す人も多いらしいので、旧ソ連圏から脱出した人数は、相当なものになるだろう。

  

  腐敗した政府は、国民精神の堕落が生み出すが、こういった状況をみるともはや堕落の段階を通り越している。国民精神の崩壊であり、基盤となる宗教も役には立たない。ウクライナ、ロシア、両方の国民の問題である。ロシア革命から100年以上経過したが、この100年間、旧ソ連圏では精神を鍛える学習は何もされてこなかったのだ。ごく僅かなテクノクラートによる国家統治にどっぷりとつかった国民が、自らの考えで自らの道を作り、世の過ちを正すという思想学習をしなかった結果である。この学習こそが、王陽明の言う「格物致知」である。今の中国は、極めて危うい。政治は共産主義、経済は資本主義という都合の良い体制が国民の精神に何をもたらすかである。

 

  トランプが国家機密情報を持ち出したとかでFBIの捜査を受けたそうである。家宅捜査令状等は何も公開されていない。何となくうさんくさい捜査である。米国大統領が、機密情報を別荘や自宅に持ち出すのは常識のようになっているらしいが、トランプだけが捜査の対象というのは何とも不思議な現象である。同時に不正選挙をトランプがでっち上げたという捜査もされているらしい。トランプにしても、不正選挙について確信があったから行動したに違いないので、ここら辺は闇の中のようである。11月の中間選挙に向けた民主党左派が仕掛けたと言えなくもない。どうもこの民主党左派(リベラル)の動向が問題のようである。彼等の思想とは何かと考えてもよく見えてこない。彼等の方に風が吹くと、気候変動の火が燃えだし、世界各地で戦争が勃発し、グローバル化によって危うい国が力を付ける。民主党リベラル思想とは、ポピュリズムであり、伝統的保守政治に対する批判、ドイツ批判哲学に通ずる批判思想にすぎないのではないのか。トランプが大統領になってから、アメリカ・リベラリズムが如何に薄っぺらな政治思想であったかが見えてきたような気がする。

 

  最近は、数ヶ月で世界情勢がめまぐるしく変化しているように見える。本当にそうなのだろうか。今回の武士道は、「葉隠」に迫ってみよう。

 

<「葉隠」の時代背景>

 

  「葉隠」は、Wikipediaによれば、「江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう」とある。佐賀藩士の山本常朝という侍が話したことを筆録したものとしている。江戸時代には、禁書扱いであった言われている。その理由が、同Wikipediaでは、「当時、主流であった儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判」しているとしているが、儒教を真っ向から批判した箇所はどこにも見当たらないばかりか、このような表現箇所もない。確かに、理屈をこねる上方、江戸風侍を極端に嫌っているが、「過ちを改むるにはばかることなかれ」、「智仁勇」など論語から引用した箇所も見られる。Wikipediaの正確性についてはかなり疑問の部分も多く、専門家数人による査読がされていないので、Wikipediaの情報は必ず裏をとる必要がある。

  江戸時代が始まってから100年以上経過した元禄・宝永・正徳が終わり享保2年頃に書かれた書物である。元禄時代は、あの赤穂浪士の討ち入りで有名であるが、江戸文化の完成期と言っても良い時代である。元祿は1688年から1704年まで、宝永は1704年から1711年まで、正徳は1711年から1716年までと、元祿以後は数年で改元されている。元禄時代には、井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門といった日本文学の原点とも言うべき人物が登場する。天文学では、日本人による初めての暦である大和歴を開発した渋川春海がいる。春海は、本因坊道策には負けているが棋士としても知られていた。現代囲碁は、この時代に完成したと言っても良い。

 

  一方、儒学は、この時代に武士だけではなく国民全体に、かつ全国に広まる。特に、朱子学の影響が大きく、林羅山の孫が大学の頭となり、新井白石、室鳩巣が活躍する。元祿時代が始まる直前には山崎闇斎も登場している。

わが国に儒学が入ってきたのは、飛鳥奈良時代以前であったと思われるが、鎌倉・室町・戦国時代を通して社会的に儒教が広まった痕跡はどこにもない。江戸時代に入って、やっと儒教という思想がはやり出す。恐らく、御所・公家社会には、陰陽道、天文、仏教、神道、儀礼、法制度と並んで、中国由来の学問である儒学を研究する部門があったと思われる。日本の儒学者の初めと言えば藤原惺窩が挙げられるが、公家であり冷泉家である。徳川家康が、朱子学を採用したのが始まりであるが、論語、孟子といった儒学本来の思想ではなく、「上下定分の理」、「大極・陰陽五行説」思想である朱子学が治世理論として都合がよかったからに他ならない。論語では、こんなことは一言も言っていない。

  

  思想、倫理・道徳といったものは、科学的ではないだけに、その時代の大災害の発生、社会状況の大変動(およそ短期的なものだが)がもたらす集団心理、政策誘導等によって都合良く論理的にゆがめられるものである。現代でも変わらず同じである。

  江戸時代、特に元祿時代以後の日本儒学の混乱は、朱子学と陽明学が同時に論じられたことである。元祿時代前後を含めた日本の陽明学者としては、熊沢蕃山(中江藤樹が始まりとされている)であろう。

  山鹿素行は、この時代の儒学者であるが、一般的には「古学」者として分類されている。孔子、孟子の言行に戻るべきだと主張したからだとされているが、この解釈にも少し問題がある。当時の儒学の主流は朱子学であり、まずは朱子学を学ぶのである。山鹿素行は、太極といった宇宙観や朱子学の説く格物致知に疑問を抱いた。こういった疑問は、論語・孟子と宋学・朱子学の文献を比較すれば明らかである。多分、素行は、疑問を抱きながら王陽明の「伝習録」を読んだに違いない。王陽明も300年前の朱熹が説いた儒説と論語にはかなり乖離があると感じたのであろう。山鹿素行も納得したに違いない。山鹿素行は、陽明学をかなり勉強したのではないかと思われるが、そのような解説はどこにも見られない。伊藤仁斎も古学とされているが、儒学へのアプローチは陽明学に近いと思われる。

  以上のような儒学の混乱時代を通して、日本独特の儒学、つまり反朱子学が形成され、神道も仏教的・儒教的神道から古来の神道へと回帰し、反○○学的な思想の形成が武士道思想への形成へとつながっていくのである。

 

  元祿時代は、まさに反朱子学としての儒学、それも日本独特の儒学が形成された時代と言って良い。中でも、山鹿素行の士道論は、武士道については抜きんでている。

  一方で、平安時代以後、江戸時代に至るまで公家社会を中心に様々な礼法が存在した。小笠原流などは有名である。現代でも婚儀、葬儀等の儀礼、ご祝儀の水引、宮内庁の数々の儀式・儀礼、神道儀礼、仏教儀礼・・・・等々、これほど多くの儀礼様式が社会慣行となっている国も珍しいというか、日本だけだろう。こういった儀礼は、元祿時代に完成したとも言える。当時の武家は、武士道よりもまずは儀礼の数々を知っておかなければならなかった。

 

  話はそれるが、孔子は、殷周時代から続く、風習、迷信、宗教儀礼、祭祀を徹底的に調べて過ちをただし、礼記としてとりまとめたと言われる。これが格物致知の本来の意味である。この礼記というのは、ひっちゃかめっちゃかでまとまりがない。それはそうだろう。古来の風習、迷信などはまとめようがない。このまとめようがない礼記の中にあった大学・中庸を取り上げたのが朱子である。勿論、大学・中庸は孔子の弟子の著作と言われている。

 

  儀礼は、「かたち」であるが、多くの祭祀・儀式の手順、儀礼を覚えることは容易ではない。武士というのは、かなり大変だったろう。武士道が語られる場合、礼式としての「かたち」が語られることが多い。

 

 

<殉死、切腹>

 

  ところで、「葉隠」の作者である、山本常朝は、殉死禁止により「追腹」が出来なかったと書いている。江戸時代に入るまで、日本には殉死という風習はなかった。奈良明日香時代から戦国時代までである。戦国時代は、「下克上」の時代だから、「忠君」等と言って主君が死んだから家来の自分も死ぬ等ということは考えもしなかっただろう。それがである。江戸時代にはいるや、「追腹」がやたらとはやるのである。「男色」が原因だろうという説もあるが、戦争のない時代に入ると、戦争で死ぬというこがなくなった武士が主君の死を機会に自死し、「忠君」を示すことが風習となったという説もある。どうもそれだけではないのではないかと思われる。「葉隠」には、家臣の酒の場の喧嘩や諫言等の些細な事に対して主君が「切腹」を申しわたしたり、詮議の上「死罪」となった事例が多数記述されている。主君に背けば死罪、不始末は死罪と、「死」は実に軽いのである。君主が死ねば、君主を補佐してきた集団は、次の君主から見ればうっとうしい存在になる。死罪となった一族は、機会があれば復讐するだろう。戦争がないのだから、これがいわば戦争みたいなものだ。前君主の補佐集団は、君主の死後に権力を失い、死罪となった一族からの復讐にさらされる。命が狙われることはなくとも、いじめは日常茶飯事だったろうと思われる。何せ、武士の粗暴さのひどさというのは筆舌に尽くしがたい時代である。「腹切」は、江戸時代前期の、平和ぼけした藩主の横暴とそれにつけいった側近藩政が生み出した悪習である。「平和ぼけ」は、現代日本にも通じるものがあり、専制的統治における「平和ぼけ」は、危険信号である。

 

  「武士道」における自死は、自らにけじめをつける唯一の手段となったと言っても良いだろう。しかし、この場合、死への恐怖心をどのように克服したのだろうか。「葉隠」には、死に対する武士の精神、心の有様については何も触れていない。度々、登場するのが仏教の慈悲についてである。「慈悲」とは、仏の衆生に対する慈しみのことである。転じて、人が人に対する慈しみの心となる。孔子の言う最高の徳である「仁」とほぼ同義と言って良い。しかし、「葉隠」では「仁」は、人の為になす行為として説かれている。確かに人の為は「仁」の一部ではあるが、「仁」そのものではない。この時代、儒学を究明していた江戸や京都の先進的知識は、地方には届いていなかった。田舎武士の教養としては、朱子学的儒教の断片と、古来からの仏教思想、武士階級の儀礼・戦の慣習が全てであったに違いない。

  忠君・忠節を全うすることは、自己・自我を捨てることにある。つまり、無我でなくては忠節を全うすることができないのだ。かくして、「死」は、常に「無」とともにあったと考えるのが妥当なところであろう。

山鹿素行は、忠君・忠節もいい加減にしてはどうかと言っている。思想というものは、実に頑固である。江戸時代が始まって100年を経ても、江戸前期の武士の思想が、江戸・大阪・京都の先進地域から遠く離れた佐賀藩では、残っているのである。

  ちなみに、現代日本は、世界でも有数の自殺大国である。西部師匠も自裁死を選んだ。最近、中野剛司の「奇跡の社会科学」という本を読んだ。この中にデュルケームの「自殺論」の解説がある。この本のタイトルとなっている社会学(経済学を含む)が科学かと言えば少なからず疑問であるが、まあ良しとしよう。デュルケームは、共同体の崩壊あるいは個人主義に陥ると自殺に走ると言う。武士の自死と大衆の自殺とは同列には論じられないが、武家社会における共同体意識については、少しは検討の必要がありそうである。

 

  元禄時代と言えば赤穂浪士の討ち入りであるが、「葉隠」では批判とまではいかなくても、実に軽く扱っている。佐賀藩の喧嘩騒動における藩士の自死と比較して、泉岳寺で何故死ななかったのかと疑問を呈している。

  ちなみに、鍋島藩と吉良家とは遠戚に当たるらしい。このことも関係していると思われるが、そもそも浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった理由が不明のままである。何の記録もなく、浅野内匠頭は、最後まで理由を言わなかったとされている。前述の山鹿素行は、若い頃、赤穂浅野家に迎えられているが、赤穂に数ヶ月滞在しただけで江戸に帰っている。また、後年、朱子学を批判した罪で、赤穂浅野家にお預けとなり赤穂に9年間も幽閉されている。この時の、浅野家の取扱は相当ひどいものであったようで、記録が残っている。さらに、山鹿素行は、宮廷礼式等の儀礼について吉良上野介を師として交友を深めている。ひょっとしたら、山鹿素行が両者の争いの一因かもしれない。

  「葉隠」において赤穂浪士の討ち入りと佐賀藩の長崎喧嘩騒動を同列に論じるなどはもってのほかだと論じているものもあるが、同列に論じるだけの理由があったと考えることも可能である。この辺を少し、掘り下げると新しい時代小説が書けそうだ。

 

  「葉隠」の論考は少し長くなりそうである。読めば読むほど様々な疑問が湧いてくるのである。もう少し、疑問につきあっていただくことにしよう。

                                                           2022/09/17