この国の精神  武士道(2) | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神  武士道(2)

秋 隆三

 

  2022年3月16日の宮城県沖地震の影響で、火力発電所が止まり深刻な電力不足に陥っている。東北大震災から11年が経ったにもかかわらず、この国のエネルギー安定化対策はどうなっているのだ。脱炭素で太陽光発電だと叫びながら、震度6の地震で火力発電所が損壊するなどもってのほかではないか。こういう事態になると太陽光発電などは何の役にもたっていない。役に立たない設備投資のために税金を使い、電力料金を上げてきたとしたら、これは国家的犯罪である。

  石炭、石油、ガス等の化石燃料をガス化してガスタービン発電をすれば緊急事態への対応は速い。これまでの太陽光発電への投資額分でこういった先端設備への投資、液化ガスの貯留投資は十分可能であった。それをしてこなかった。エネルギー政策だけではなく、この国の公共投資に対する考え方は狂っている。政治家や官僚、ラジカルな環境活動団体、特に学者が、理想を現実とはき違える、技術的可能性を実現可能性と勘違いする、つまり狂ったことが原因である。プーチンを見てみろ。理想と現実をはき違えた世界最悪の事例である。プーチンだけではない。欧米のSDGsなどは、理想を現実とはき違える典型である。それだけではない、ヨーロッパに至っては、世界をリードし、世界を救うのは彼等の理想と理念だと言いながら、現実の食料とエネルギーの50%をロシアに依存している。

  

  EVへの転換などは、望むべくもない。中国がEV化を進めているというが、電力不足の国でどうするのだ。ヨーロッパやアメリカだって同じだ。現状の発電設備は、ピーク状態ぎりぎりである。何故か、そうしないと儲からないのである。中国の大規模停電はつい最近のことである。アメリカでは、ニューヨーク・カリフォルニアの大停電、ヨーロッパではフランスを除いて何処だって不足している。これでEVに変わると、電力が逼迫する夕方から深夜にかけての電力需要は現在の倍以上になるだろう。電力供給は、発電設備だけではない。電力量が一時的に現在の倍になるとすれば、変電設備、送電網もそれに耐えるだけの容量が必要になる。膨大な投資額になる。技術的可能性はあるが実現可能性はない。そうかと思えば、訳知り顔の自称ジャーナリストが、ネットニュースで、EVは蓄電池になり緊急時には家庭用電力として5日分ぐらい供給できると書きまくる。経産省やメーカーをよいしょしようという気持ちはわかるが、もっと勉強しろ。レジャー用であればそれも可能だが、都市部以外ではほとんどが通勤用であり、仕事用だ。そんな余裕のあろうはずがないではないか。こんな記事を恥ずかしくもなくよく書けるものだ。金になるなら何でも書くジャーナリズムの堕落の典型である。

 

  第二次世界大戦は、E.H.カーが指摘したように理想と現実をはき違えた社会が引き起こした。今の状況を第三次世界大戦の予兆と感じるのは、私だけであろうか。グローバル金融資本、ネオコン、ディープステート等の陰謀論ともとれる要因によると言えなくもないが、要因の如何に関わらず、欧米を中心とする社会が理想と現実とをはき違えるという現象が社会常識となり始めると最悪の事態を引き起こすのである。民主主義そのものが内包している矛盾である。民主主義とパンデミック、SDGsは、その引き金になり得るのである。

 

  今回のウクライナ戦争は、考え方によれば何もできない国連が引き起こしたとも言えなくない。脱炭素、SDGsだと、各国政府、企業、NGOを巻き込んで展開した。ひょっとしたら、ヨーロッパ諸国特にフランス、ドイツあたりが、ロシア依存のエネルギー政策から脱却するために脱炭素、SDGsというグローバル戦略を無理矢理進めたことが原因かもしれない。脱炭素という夢物語をすぐにでも実現しなければ人類の未来がないというというように。ウクライナ戦争で失われる人の命、何百万発の砲弾、使用される莫大な化石燃料、脱炭素どころではないではないか。年間40兆円ものエネルギー代金が、今もヨーロッパからロシアに支払われている。ソ連時代から変わらず支払われているというのだから、開いた口がふさがらない。

  日本と中国との関係も、エネルギー以外では似たようなものだ。

 

  それはさておき、武士道とは何か、武士道の精神は、現代のこの国に生き残っているのかについての論究を続けよう。

 

<武術と武士道>

 

  江戸時代前期に成熟する「武士道」は、徳川家康が治世学として採用した朱子学をきっかけとしているが、儒教そのものではない。かなり長い時間をかけて醸成されてきた思想が、儒教の知識を元に、形のない何とも不思議な思想として形成された。武士道は、剣道、茶道、華道のように体系化されたものはない。どうも、あえて体系化しなかったのではないかとさえ思える。つまり、あくまでも武士の内的規範にとどめることが必要だったのではないかと考えられるのである。それにしても、何故この漠然とした「武士道」が、武士のモラルとして広まったのであろうか。

  この問題に迫る前に、「武士道」という概念が、どのような経過を経て誕生したかを探る必要がある。

武士階級あるいは武人階級は、飛鳥奈良時代以前から、つまり、武力による紛争が始まった時から存在したことは疑いようがない。勿論、飛鳥奈良時代の王族、貴族階級も武器をもって戦っているから、武器を持って戦った者は全て武士みたいなものであるが、軍が組織化されて武士階級が誕生したと考えるのが、まあ、妥当なところであろう。正確に調べたわけではないが、平安時代の末期、つまり源氏・平氏の誕生前後を契機として武士の地位が確立したとも考えられる。但し、武士という言葉が表れるのはかなり後の時代であり、「公家」に対する「武家」と読んでいたらしい。江戸時代の初めに発布された「武家諸法度」、「諸士法度」では、武家は領主とその関係者となっており、諸士とは侍のことであり幕府直参を指している。

 

  さて、武士とは軍人であるから、武術に長けているはずである。武術と言っても、剣術、弓術、槍術等々、様々にある。源平合戦の頃の戦闘からうかがえるのは、まずは弓術である。歩兵が斬り合いをするのは最後の最後であり、大方は弓矢による戦闘でけりが付いたのではないだろうか。那須与一の話などはその典型である。これでけりが付かなければ、次は騎馬戦である。騎馬戦では、まずは流鏑馬(やぶさめ)である。馬上から矢を射るが、敵との距離がある場合であり、歩兵との接近戦であれば、槍か薙刀であって、刀を用いる場合には長刀であったと思われる。歩兵同士の戦いでは、鎌倉時代までは薙刀であり、戦国時代以後は槍、それもかなり長い槍であった。

  刀を使うというのは、狭い場所での接戦の場合か、弓、槍を失った最後の戦いであったと思われる。戦いの最後の段階である刀による戦いでは、剣術の腕前が良ければ、うまく切り抜けられる可能性もある。剣術があらゆる武術の中で抜きんでて重要視されたのはこういう意味合いもあったと考えられる。

剣術の発祥は、源義経で有名な鞍馬寺の鞍馬流だと言われている。ほぼ伝説だと考えられるが、古流剣術が京都に見られることからも、山伏や僧侶を中心に武術が形成されたと考えることに無理はなさそうである。

  一方、武術の流派として記録が残されているものとしては、鹿島古流であろう。16世紀初頭に登場した塚原卜伝が、現代に通じる剣術体系を創り上げたといっても過言ではないかもしれない。この流派は、現代にも引き継がれている。鹿島神宮に伝わる古流であるが、鹿島神宮に祀られている神は、古事記に登場する武神であることから、かなり古くから武神と武術との関わりがあったと推定される。仏教においても四天王が知られており、聖徳太子が戦いの前に勝利を祈願したと伝えられている。

生死をかけた戦いでは、時の運もあるから、神や仏に祈願するのはごく当然の心理であろう。特に、1対1の戦いでは、相手を殺すか、自分が死ぬかであるから、いずれにしても死を覚悟せざるを得ない。

 

<宗教と武士道>

 

  戦いに臨む時の死生観というものが、武士の精神性として形づくられていったと考えられる。こういった死生観の形成に大きく影響を与えたと考えられるのは、仏教ではないだろうか。それも鎌倉禅の影響である。禅は、「自分とは何か」を考えることである。自分との関係・わだかまり、自分を意識している全てを捨て去ると何が残るか。果たして自分自身というものを認識することができるであろうか。究極のところ「無我」でしかない。「自我」というものは存在しないということになる。

無我については、論語にもある。

  子罕第九―四

    子絶四、毋意、毋必、毋固、毋我

  金谷訳では、「孔子は4つのことを絶った。勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我を張らない」となっている。毋は母ではなく無いということである。漢字の解字に忠実に解釈すると、意は思うことでありあれこれと推量することである。必とは何が何でもやるということである。固とは頑固さであり、我は自分のこと(自我)、ひとりよがり・頑固さを表している。意訳すれば、「あれこれと勝手なことを考え、考えたことを何がなんでもやろうとする独りよがりの頑固さを絶つ」ということになる。これをもう少し哲学的にすれば、「無我」である。

  孔子も、こんなにもあれこれと勝手なことを考える自分というものを捨て去ることができるのかと考えたのだろう。そしてそれはできるのだと言っている。つまり、人の思考は、自我があると思い込む錯覚にすぎないことを、孔子は気付いたに違いない。しかし、仏教のような、宗教哲学にまで高めてはいない。勿論、仏教においても哲学的究明は、宋時代(日本では鎌倉時代の道元)まで待たなければならなかった。

「自我」の存在を論じてきた西欧キリスト教哲学においても、近年、「自我」はないと言い始めた(エゴ・トンネル トーマス・メッツインガー著)。このことは脳科学においても解明が進んでいる。赤ちゃんが最初に認識し始めるのは、社会脳と言われる脳の働きである。つまり、自分以外の人間に対する脳の反応であり、この働きが進むと「自我」があるかのように脳が働くが、それは社会的応答であり意識であり、脳が作り出した錯覚である。それが証拠に、眠っている間は意識のスイッチは切られて自我は消滅する。

 

  中国宋五禅を起源とする禅宗と、同時代に盛んになった道学・朱子学(儒教)は、儒釈不二という思想を作り出す。つまり儒教的道徳・倫理と仏教的道徳・倫理は、分離しがたく同じものだという思想である。

 

  時代の思想的背景と武士階級の成立が、武士特有の死生観を生み出したと考えられる。

 

  剣をもって対峙し、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかを決めるのであるから、人間の思考としてはこれ以上の思考はない。

 

  竹刀剣道でも試合をすると良くわかる。勝ちたいと言う気持ちが強いと、スキができると同時に相手のスキを見付けることができなくなる。無心(無我)になる必要がある。無心・無我・無欲である。精神集中を必要とする一対一の武術では、ほぼ共通である。

  まして、真剣勝負ともなれば、無心・無我だけでは不足する。若い頃、「のぞき」の現行犯を捕まえようと暗がりで木刀を握って待ち構えていた。すると、突然、目の前に「のぞき」犯が現れた。しかし、木刀を握りしめたまま身体が動かないのだ。数秒、にらみ合った後、犯人が逃げたのでそれで終わりとなった。

「精神(心)」の問題である。真剣勝負のような生きるか死ぬかの場面において平常心を保ち、身体を自由に動かすためには、普段から「精神(心)」を鍛えなければならない。

  現代スポーツならば、さしずめイメージトレーニングというところだろうが、生死に関わる戦いとなると、イメージトレーニングだけでは、死の恐怖から逃れることはかなわない。

 

  禅の登場と武家社会の成立は、ほぼ同時代である。禅の教えである「無」の思想は、いつでも生死をかけなければならない武士の思想として納得のいくものであったに違いない。霊性と理である「無」が結びついた仏教哲理が、乾いた土に水がしみこむように武士の精神に染みこんだ。さらに「儒釈不二」、つまり「儒教的道徳倫理と仏教倫理とは分かちがたく同一である」という思想が加わる。「心は形を求める」というように、社会行動規範としての儒教は、「無」の思想の形として最も適していた。勿論、日本独特の精緻な儒教解釈がである。

 

  さて、それでは神道と武士の精神との関わりはどうであろうか。塚原卜伝に始まる日本剣道は、鹿島神宮を起源としている。神道では、神への奏上を祝詞(のりと)と言う。簡単に言えば「宣言」である。祝詞にもいろいろあるが、お祓いも祝詞の一つである。祅(わざわい)を祓うことであり、罪を許してもらうことと、祅を回避することの二つの意味があるようである。今では厄払いとして知られている。祖先神をはじめ、国づくりの神々への様々な祈願、厄払い等は、武士に限らずほとんど全ての国民に根を下ろした信仰であった。神々の存在を信じるというよりも、人智の及ばないものに対する畏敬であり、人智を超えたものの存在を信じることが、人の心にとってとてつもなく大切なことであったと思われる。というように考えると、神道という宗教環境なくして武士道は生まれず、神道という極めてあいまいであるが強固な国民的信仰をベースに、仏教と儒教の思想が重なり武士道へと醸成されたと考えるのが自然である。

 

  この国の文化・文明は、過去を全て否定し新しい思想に変化するという大転換を行ったことは、歴史的に見られない。文明国の中でこういった国はまずないのではなかろうか。戦後に、過去を否定し米国流民主主義へと転換したことはあるが、過去の全否定ではなかった。否定さえも曖昧にして米国流の文化・文明を採り入れたが、わが国有史以来、国民に綿々と受け継がれてきた神道という宗教感は、そう易々とは消滅しないのである。

 

  儒教・仏教の道徳倫理については、これまでの説明どおりである。「無」の精神は、自己認識を厳しく求めるものである。そこに社会階層の上下原則である「上下定分の理」という朱子学思想が加わり、封建制の江戸時代が重なることによって武士階級の「生きる」ための精神の道が開かれた。この道の根本は、わが国特有の宗教感-人智の及ばざるものへの畏敬-と「論語の学習思想」、仏教の「無我」が融合した極めて曖昧なものであり、感性と思考のそれこそ繰り返し学習によってのみ近づくことができるのであって、山鹿素行の「士道論」は、道の形を示したものに過ぎないということであろう。

 

  江戸時代も100年を経た頃の、佐賀藩の一武士が聞書により残した「葉隠」という文献がある。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で有名な葉隠れである。実に奇妙奇天烈な聞書である。「無」の極限としての「死」、武家社会における生き方とはどんなものだったのか。次回は、これに少し触れながら、現代における「武士道」とはを問うてみたい。

 

                                                   2022/06/17