この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(5) | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(5)

 

  安岡正篤を書き始めて、長い時間が経った。米国大統領選挙騒動、コロナパンデミック、ウクライナ情勢と変動する中で、世界中がなりを潜めて世の中の動きを見ている。社会の雰囲気がおかしい、つまり、思想・精神が何か違うと感じ始める時というのは、災害の前兆現象とよく似ている。安岡正篤が、大正期に20代の若さで「日本精神の研究」に挑んだのは、この国はあるいは国民はどうかしている、世界は何か間違えているのではないかという直感によるものではないだろうか。

  ウクライナ情勢は、緊迫度を増してきた。台湾はどうなるのだ。誰もわからない。石油価格はウナギ登りに上昇し、SDGsだ、EVだと浮かれている。その割には、ドイツはロシアからのガス供給が止まるのではと戦々恐々である。そうかと思えば、フランスはこの時とばかりに原発の増設をぶち上げる。全ては、アメリカのバカな大統領の失策によるものだと言えばそれまでだが、脱石油などは夢のまた夢でしかない。中国が、EVにシフトしたと言っても、石炭火力の電力不足で停電にまでなる国がどうやってEV化ができるのだ。電力供給をどうするのかは、誰もわからない。誰も考えていないのだ。理想、夢、理念が先行し、それを具体的行動に直結させる政治思想が危険であることは、E.H.カーが100年も前に分析している。ヨーロッパ文明というものは極めて危険な文明であることは間違いない。こんなことは、偶然や社会的ムードでは起こらない。誰かが仕掛けていると想像することに無理はなさそうだ。

 

  100年前に安岡正篤は、日本人の価値観が変化するだけではなく、世界の先進国の指導層・知識層・国民が狂い始めたことを直感した。

 

  安岡正篤は、下記の人物の生き様を紹介している。

○山鹿素行

○吉田松陰

○高杉晉作

○高橋泥舟

○楠木正成

○大塩平八郎

○ガンジー

○西郷隆盛

○宮本武蔵

 

  時代はばらばらであり、人物には学者もいれば剣客もいる。かとおもえば、ガンジーの無抵抗主義(非暴力主義)が突如取り上げる。はちゃめちゃと言えなくはない。楠木正成は、彼の祖先が正行に加わり討ち死にしていることもあり、南朝とそれに殉じた武士の精神に言及している。

  はちゃめちゃであるが、彼が言いたいことは、日本人の根底に流れている精神(丸山が言う重奏低音)とは何か、それは武士道ではないか、それならば武士道とは何かに言及していることである。

  武士道については、機会を改めて究明してみよう。それが真にこの国の精神なのかを。

 

  安岡が挙げた人物は、ガンジーを除いて全て武士である。公家の藤原惺窩、町人の伊藤仁斎、本居宣長、江戸期の俳人の多くを取り上げていない。武士、武人を取り上げてこの国の精神を代弁するものとしたのは、多分に大正から昭和初期という時代的影響が大きかったと推測される。戦争の時代なのである。戦争に向かうのではないかという漠然とした不安の中で、人は、生きるために覚悟をしなくてはならない。死ぬための覚悟ではない。

  安岡正篤は、冒頭に「おい、日本人よこのまま戦争に向かう覚悟があるのか」と問いかけている。

 

  山鹿素行は、三波春夫の歌謡浪曲「赤垣源蔵」の中で、「一打ち二打ち三流れ、山鹿流儀の陣太鼓」(これは創作)で有名であるが、元祿忠臣蔵の赤穂藩との関わりは延べ20年近くに亘るので、赤穂浪士の討ち入りの精神的基盤となっているであろうことは容易に想像される。

  安岡は、山鹿素行の「士道論」を挙げて、「我ら如何にして人格を涵養すべきか」を説く。近年、人格などの言葉を聞くことさえ希である。若い人に人格とは何かと聞いても、恐らく「教養のことですか?」程度の認識であろう。人格とは、自らの行為について責任を負う覚悟の心(精神)、様々な欲望について欲望の元を究明する精神を具することである。どれほどの知識を身につけようと、この精神なくして人格あるものとは言えないのである。それが、士道である。

  ここでいう士道とは、所謂、巷間に言う「武士道」とはやや趣を異にする。「士」とは、「士大夫」、つまり、中国古代の身分制度における「士大夫」を言い、天子直参の官僚として「士」は「大夫」に次ぐ中下級の官吏である。

  「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は、「葉隠」の聞書第一の二に登場する有名な言葉である。江戸時代も100年を経ると、武士道にもほころびが出始める。「葉隠」は、全編を通して「士」の「死」について書き留めた。

 

  「宮本武蔵」については、比較的長い文章である。吉川英治は、長編小説「宮本武蔵」の執筆にあたり、安岡正篤の自宅に長期居候をして書き上げたという逸話がある。安岡は、子供の頃に剣道を習っていたようで、剣道に対する思いは深い。私も、剣道をやっていたことがあるから少しはわかるが、剣道というのは実に不思議な武道である。年齢を経るに従って強くなるのである。それも年寄りになるとやたら強くなる。勿論、体力は落ちるが、短時間の対決であれば年寄りの達人ほど強い。竹刀剣道ではなく、木刀や真剣の剣道では、其の差は歴然である。宮本武蔵は、神仏を信ずるが、神仏には頼らずとして、対決に望んだという。宮本武蔵の心遣いの細やかさについても、逸話を通して解説している。大正末期から昭和初期の軍人に対して武人の精神とはこういうものだと、暗に語っているのかもしれない。

 

  安岡正篤の「日本精神の研究」は、序文の陽明学を基礎とした論説にはそれなりに傾聴すべきものがあるが、全編をとおして、日清・日露・第一次世界大戦の戦勝経験以後の激変状況に向かうわが国にあって、国益なのか私的利益なのか判然としない欲望にまみれていく資本主義に対して、この国には何が善であり義であるかを知る精神があったと主張している。それは、単なる陽明学という輸入学問によるものではなく、幾多の先達によって積み上げられてきた貴重な思想なのであると。

 

  戦後77年も過ぎた。バブル経済の崩壊から30年を経過した。コロナ騒動はまだ先も見えず。デフレ下の日本経済は全く先が見えない。行き着く先まで行かなくてはこの国の再生はないかもしれない。日本国民の精神は、戦前の一時期から崩壊し始め、戦後の高度経済成長とバブル経済で崩壊し、バブル崩壊後の失われた30年で精神なき知識への渇望へと向かい、まさに精神なき資本主義を善しとする社会へと変貌した。この国の精神は、コロナパンデミック以後どのように変わるのだろうか。全くわからないが、何はともあれ、失われたかもしれないこの国の精神について追求を続けよう。

 

                                                    2022/02/15