堕落論2018 人工知能で何が変わるか? | 秋 隆三のブログ

秋 隆三のブログ

昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

                         堕落論2018 人工知能で何が変わるか?
                                                                                                                           秋 隆三
  2016年から2017年にかけて科学技術最大のニュースを挙げるとすれば、重力波の発見と人工知能(AI)だろう。人工知能が囲碁界最高のプロ棋士に勝った。将棋では既に人工知能が勝っているが、囲碁は将棋に比べると思考形態が人間的であるため、人工知能は勝てないのではないかと言われていた。ところがである。あっさりと人工知能が勝ってしまった。
 
人工知能は革新的技術か?・・・本当か?
  
  ところで、人工知能とは何かである。ネットで検索しても人工知能を理解することは容易ではない。ディープラーニング、ニューラルネットワーク、機械学習等々、様々な専門用語ばかりで、それが人工知能とどんな関係があるのかはほとんどわからない。コンピュータが人間の脳と同じように、言葉や画像を認識し、学習し、問題に対して判断を下すというのだろうか。現在のAI技術は、どこまで人間の知性に近づいているのか、将来どの程度まで成長するのだろうか。実は、わからないことだらけなのである。  しかし、ニュース、テレビを見ると、今にも人工知能が人の仕事を奪うことのように伝えている。昨年、NHKが長々と内外の専門家なる者を数名集めて人工知能がもたらす社会変革に関する討論会を放送した。人工知能と呼ばれるコンピューターの仕組み、現在の技術、将来の技術進歩等に関する情報は何も放送せず、ただ人工知能が実現したらああなる、こうなるという無味乾燥というか、全く意味のない議論だった。受信料を徴収しているのなら、もっとましな放送ができそうなものだが、何ともおそまつな内容で話にならん。NHKの科学技術に関する放送のほとんどはこのようなものだ。NHKの企画スタッフが理解していないのだ。十分な知識と経験がないため、いい加減なところでごまかしてしまう。コズミックフロントという天文・宇宙の番組があるが、15分で終わる内容を無関係な内容でごまかして1時間に引き延ばす。韓国ドラマのNHK天文ドキュメンタリー版である。将棋・碁の人工知能との対決番組があったが、人工知能のアルゴリズムの説明が全くといってよいほど欠落している。コンピュータ碁のアルゴリズムは著作権フリーで公開されているのだから、もっと追求しなくては意味がない。こういった報道の意図しているところは一体何なのか。人工知能社会がすぐにでも実現され、大きな社会変化が起きるぞと国民に警告し脅すことなのか。恐怖、脅迫が社会を変えるという恐怖の思想ではないか。
  民間シンクタンクのHPを見ると、「日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に」なると公表している。それも、今から12年後の2030年のことだそうだ。コンピューターによる自動加工システム、自動倉庫等は、ものすごいスピードで改善・改良が進められており、今更人工知能などと大げさなことを言うこともない。
  人工知能が社会を変えるのか。本当か?。2018年の始まりは、人工知能の真実にせまろう。おそらく、ここにも堕落の何かが潜んでいるに違いない。
 
脳が情報を記憶する仕組みはどうなっているのだ?
 
  人工知能とは何かを知る前に、人間の脳の働きをみなくてはならない。近年では脳科学という科学が急速に脳の働きを解明している。脳の解剖学的解明は、1920年代から盛んに行われ、1940年代には神経細胞の構造が解明されている。ニューロンの働きである。
  最近、二冊の本を読んだ。佐藤愛子さんの「90歳。何がめでたい」と養老孟司さんの「遺言」である。久しぶりに丸善に寄ってぶらぶら見ていたら、とりあえず沢山積んである本があったのでとって見たらこの二冊の本だった。ただ、それだけで選んだので著者には申し訳ない。佐藤愛子さんの話し方や風貌を見ていると、何故か母を思い出し、親しみを感じる。大正生まれの女性に共通の何かがあるのかもしれない。「90歳。何がめでたい」は、最近の世相の異な事や、もの申すことが何となくはばかれる風潮に対する佐藤愛子さんの笑い飛ばしである。考えようによっては世間の脳内の問題とも言える。
  脳に関連するのは、「遺言」である。養老先生は、「バカの壁」以来、私の師匠である。養老師匠は、物の見方、考え方には、様々な視点があることを説く。「遺言」は、意識と感覚とのバランスを論じたものと言って良いが、人間の脳の活動を、養老師匠の解剖学的知見とものの見方を基に思いのままに記述したものである。さすがに養老師匠、はじめに哲学についてことわりを入れてある。哲学は、ギリシャの昔から脳の中の問題を取り扱うからだ。養老師匠も脳の記憶のメカニズムとその活性について考えた。特に、静止記憶ではなく、時間経過を伴う記憶、動的記憶ともいうべき記憶である。
  脳の記憶のメカニズムは、静止記憶であろうと動的記憶であろうと、ほとんどわかっていないらしい。脳の神経細胞の1個には、核を中心に樹状突起と呼ばれる組織が沢山でている。一つの樹状突起には他の神経細胞から情報を受け取る受容体が1万個以上あるらしい。核からは他の神経細胞に情報を伝える伝送路ともいうべき軸索が一本伸びている。軸索の先にシナプスという他の神経細胞に情報を伝達するための器官がこれも1万個以上あるらしい。神経細胞は、他の神経細胞のシナプスから樹状突起の受容体で情報を受け取り、それを自分のシナプスを通して他の神経細胞に情報を伝える。情報といっても電気信号である。シナプスと受容体の間は化学的に結合しているので、シナプスは電気信号を伝達物質の放出に変え、受容体は伝達物質を受け取ると電気信号に変える。ここまでは、どの教科書にも書いてある。この神経細胞がどのような方法で情報を記憶するのだろうか。ディジタル回路に置き換えると、入力端子が1万個、処理装置に核があり、出力端子が1万個である。1万個の入力端子のうちどこかの入力端子がオンになると、どこかの出力端子がオンになるのだろうか。仮にそうだとすると入力から出力への経路を調節する働き(交換回路)が神経細胞になくてはならない。あるとすれば核にあることになる。どうやら、神経細胞核の遺伝子が作り出すタンパク質が関係するらしい。何度も同じ刺激、つまり入力があると、神経細胞核は、特殊なタンパク質を合成して、そのタンパク質がシナプスから放出される伝達物質を制御する。しかし、どのシナプスを活性化(発火)させるかはどうやって決めているのだ。要はわからないのである。ごくごく一部の機能が徐々に解明されているのが現状である。現代科学とは、このように重箱の隅どころではない微細な部分の解明なのである。微細な部分が解明されなければ全体がわからないという典型的な例が脳である。勿論、微細な部分がわからなくても現実の生活には何の支障もない。原因と結果が現象として解明されていれば現実世界の問題の99%以上は、解決可能だからである。だが、人工的な知能を作るということになるとそうは行かない。
  人間の脳の記憶のメカニズムは全くわかっていない。記憶のメカニズムがわかれば、思考の機構も解明されるだろう。少なくとも、現在のコンピュータ(ノイマン型コンピュータという)の記憶や演算のメカニズムとは似て非なるものであることは確かである。
 
コンピュータの記憶・演算はどうなっているか?
 
  それではコンピュータの構造を見てみよう。現在のコンピュータのプログラムによる処理メカニズムは、ノイマン型コンピュータと呼ばれる。ノイマンというのは数学者の名前である。ノイマンという人は、天才ではあるがややサイコパスなところのある人だったようで、水爆の開発に深く関与した。キューブリック監督の映画「博士の異常な愛情」のモデルとされている。コンピュータは、命令を一つづつ実行する逐次処理が原理であり、この60年間何も変わっていない。命令の解読部と呼ぶ回路と実行部という回路の二つの回路で一つの命令が実行される。解読部は、命令(二進数のコード)コードによって実行回路のどの回路にデータを送るかを決める。実行回路は、加算するとか減算するとかいう回路のことである。命令が加算であれば、加算回路の二つの変数の格納部分に、命令に付随している記憶番地の内容を計算用記憶領域にわたして、加算回路を実行させる。コンピュータは、ただこれだけしかしていない。お気づきだろう。電卓で計算する場合と同じなのだ。コンピュータの加算回路部分が電卓になっていて、電卓では命令解読部を人間がやっているのである。こんな単純な計算原理で人間の脳に匹敵する情報処理が果たして可能かどうかである。
  情報検索は、単に記憶装置に入っている情報を検索するだけである。グーグルで検索する場合、検索キーを入力すると、サーバーの検索プログラムが起動して上記のような計算原理で格納されているキー情報を探すだけである。勿論、検索確率等の検索効率を高めるための様々な工夫がされているが。
  現在のコンピュータの処理速度がものすごく速いこと、膨大な記憶容量となったことが、あたかもコンピュータに知能があるかのような錯覚をもたらしたとも言えそうである。そもそも、人工知能なる言葉は、マッカーシーが1955年に提唱したArtifitial Intelligence(AI)の邦訳である。当時のコンピュータの性能は、現在に比べればそれこそひどいものであるが、当時としては先端であった。マッカーシーの功績の一つはタイムシェアリング理論の提唱である。マルチタスクを実現するために、これ以後様々な工夫が試みられる。
  データの記憶は、0と1の二進数に置き換えてD-RAM、ハードディスクに格納する。コンピュータのデータ記憶とは単純なのである。画像にしても同じだ。単純に白か黒であれば0か1で良いので1ビットで良いが、カラーになると三原色に色の強度を付加するのでビット数はかなり多くなる。それでも二進数で記憶することに変わりはない。
  人間の脳の記憶のメカニズムはほとんどわかっていないが、神経細胞(ニューロン)の構造からみても、脳の記憶方式は、コンピュータの記憶方式とは全く異なるものであることは容易に推測できる。脳の記憶のメカニズムが知能をもたらしたとすれば、二進数の単純な記憶方式がコンピュータに知能を与えるとはとても思えないはずである。人の知能の進化は、情報の記憶の仕方によってもたらされたと考えることができるのではないだろうか。養老師匠によれば、脳内では、感覚所与は最終的に言葉に抽象化されるという。この辺になると、「脳科学」の進歩を待たなければならない。
 
囲碁・将棋の人工知能は、本当に知能なのか?
 
  人工知能がプロの棋士に勝ったからコンピュータは知能を持ったといえるか。囲碁のルールはいたって簡単である。縦横それぞれ19本の線を引き、その交差点に白と黒の碁石を交互に置いて、自分の碁石で囲った領地が相手の領地よりも多ければ勝ちである。それ以外のルールは、自殺手、コウ、セキぐらいのもので、他に3コウ等があるぐらいだから、極めてシンプルなものである。黒が第1手を打つ。どこに打ってもかまわないが、長い囲碁の歴史から、序盤の定石がある。定石で打てば大体五分五分の形勢となることはわかっているので、囲碁を学ぶときは、この定石を覚えることから始める。コンピュータ囲碁の初期は、盤面全体では難しかったので、定石や詰め碁といった碁の練習用のようなものであったが、後にモンテカルロ碁が登場したことで、にわかに人工知能が注目され始めた。モンテカルロ法というのは、確率的現象を利用して問題の数値解法を行うことである。簡単に言えば、コンピュータで膨大な乱数を発生させて結果を見ることである。例えば、コンピュータでさいころの丁半ばくちをやるとする。コンピュータが壺ふりで胴元である。コンピュータは、1から6までの乱数を二度発生させて丁か半かの目を出せば良い。これを繰り返すと、丁と半の出る確率は50%になるはずである。コンピュータで1万回ぐらい繰り返すと確かめられる。モンテカルロ法は、コンピュータの乱数発生機能に着目した計算手法である。有名な計算例では、円周率の計算や数値積分がある。
  囲碁のモンテカルロ法は、乱数を発生させてむやみやたらに石を置くのである。勿論、ルールを守ることが前提である。何度も、コンピュータに最後までやらせて勝率の高い次の手を打つという方法である。これが人工知能かと言えば、人工知能とは言いがたい。単なるシミュレーションでしかない。コンピュータ碁が人工知能(AI)と言えるようになるのは、ディープラーニングが登場してからだ。
  ディープラーニングというのは深層学習と呼ばれている。この方法の特徴は、ニューラルネットワークというコンピュータ解析手法を採用した点である。さあ、ここからが少しはAIらしくなる。ニューラルネットワークを検索すると、沢山の解説が出てくる。脳の神経組織の機能を模して開発されたソフト手法とか何とかである。確かに少しは(ほとんど似ていないと思うが)似ているかもしれないが、ネットワークモデルの特殊な例である。理論的な研究は1940年代からあることはあった。しかし、実際に利用することはほとんどなかった理論である。なぜなら、やたら計算しなくてはならないからで、計算時間が膨大な割には成果が少なかったからだ。それと、学者が嫌ったこともある。学者は、美しく単純な数式を求める。今でもその傾向は強いのだが。このニューラルネットワークが一番得意とするのは、画像認識である。良く例に出されるのが、手書き文字の認識である。人によって書き方がまちまちな文字をどうやって正確に識別するかである。それまでは、様々なパターンを作っておいて、パターンの合致したものを選択するという方法だった。しかし、これは学習ではなくてコンピュータが記憶したことと付き合わせるだけである。このニューラルネットワークでは、入力された内容を数段階(ニューロンの層のことで複数のニューロン層で構成される)に分けてパターンの特徴付けを行い最終的に抽象化して正解に対する確率を決定する。この特徴を抽出・抽象化する過程(重みとかバイアス、フィルターと呼ばれる)の数式の係数やパラメータの決定手法を学習と呼んでいる。つまり、ニューラルネットワークを経て得た解と既にある正解との誤差を最小になるようにパラメータを決定すれば良いのである。そのためには、正解が必要となる。正解モデルを教師とみなして学習するので教師付学習と呼ばれている。
  最近、ニューラルネットワークに関する非常にわかりやすい本「Excelでわかるディープラーニング超入門」(涌井良幸、涌井貞美 著 技術評論社)が出たので紹介しておこう。この涌井師匠達のの数学計算の解説書(他にもある)は、難解な理論を実に丁寧にわかりやすく解説している。これ以外に、囲碁の人工知能の本は多数あるが、アルゴリズムを丁寧に解説することを回避したインチキ本がほとんどである。
  手書き文字の認識であれば、時間はかかるが正解モデルが多数あるので、教師付学習を繰り返せばかなり精度の高いモデルが完成する。しかし、ゲームの場合、正解モデルの数には限界がある。そこで正解モデルがない場合の学習方法を考え出した。つまり、コンピュータ同士で対決することで学習する方法であり、これを強化学習と呼んでいる。涌井師匠達の本は、強化学習については触れていないのでご注意を。
  さて、ニューラルネットワークという計算手法によってコンピュータが問題を学習し、正解に近い回答を得るためのパラメータを得るということまではわかった。、ニューラルネットワークは、複数のニューロン層で構成され、入力データはフィルターによって特徴付けがされることもわかった。しかし、フィルターを経由すると何故特徴がうまく抽出できるかは、実はわかっていないのである。さらに、中間層を何枚にすれば正解確率が高くなるかもわかっていない。ほとんどが経験的にわかったと言って良いのである。囲碁の場合の強化学習等は典型的な例である。
  
ディープラーニングという人工知能は何に利用できるのか?
 
  今流行のディープラーニングが何に利用できるかを考えてみよう。AI囲碁は、ゲームであるからまあ、ゲームソフトの場合には利用できるかもしれないが、一般的には囲碁の事例を実務分野に応用できる可能性はほとんどない。画像認識には、昔から利用されていたから、この分野には活用出来そうである。気象観測、偵察衛星、道路安全管理、公共施設の点検監視等々、画像認識により自動的に判断する分野への応用は極めて広い。これは、音についても同じである。例えば音声認識等は、今後極めて高い精度となるだろう。教師となるデータが沢山得られる分野については、ディープラーニングの得意な分野なのである。
  音、画像等、養老師匠の言う感覚所与を数字・言語・パターンへと抽象化する手法であるディープラーニングは、活用目的によっても異なるがそれなりに進歩していくだろう。しかし、ディープラーニング的人工知能が進歩したからといって、世の中がどう変わると言うのだ。
 
自動運転が実現された自動車社会を想像してみると!
 
   自動車の自動運転試験が始まっているが、果たしてどんな自動車社会となるのだろうか。完全に自動運転が可能な自動車が開発生産されることになったと仮定してみよう。
  完全な自動運転が可能な自動車であるから、公道でのマニュアル運転が禁止されて運転免許は不要になる。運転免許講習所や、免許更新試験場は要らなくなり、大量の失業者が発生する。
  事故は、原則的に発生しない。事故が起きるとすれば、崖崩れや倒壊等による被害、故意に障害物を車に当てたり、飛び込む等の事故であるから自動車側には責任がないので、現在のような自動車損害保険は不要となる。不慮の被害にともなう保険だけになるので、損害保険会社の大半は倒産する。
  マイカーは、どうなるかと言えば、自分で運転することができないのだから、車を所有する必要性がない。車が必要な時は、ドライバーのいないタクシーを呼ぶことになる。田舎では、今や一人一台の時代だが、自動運転時代では、都市と同じで車を呼べば良い。こうなると、自動車メーカの生産台数は激減し、既存の自動車メーカは生き残ることができず、日本で1社か2社となり、生産台数も現在の1/10以下まで減少する。さらにEVだから自動車生産による経済波及効果は極めて低いものになる。もはや、自動車産業が経済成長の牽引産業ではなくなる。
  トラック輸送はどうかと言えば、ドライバーは不要だが、荷物の積み卸しや整理にはどうしても人手がいるので、人員削減はあまり望めそうにない。しかし、ドライバーが不要なこと、事故がなくなることから輸送コストは低下する。
  バス、タクシーはドライバーが要らないから、人件費が激減する。人件費が激減しタクシー利用が増加することから、タクシー代は格安になる。このため、公共交通網が発達し、自動車社会の基本は公共交通システムに転換することになる。
  こんな社会になることを自動車産業が望むだろうか。望むはずがない。ということは、人工知能により完全自動運転が可能な自動車などを自動車メーカが本気で開発するわけがないということだ。
  自動車メーカが人工知能開発を進めるとしても、現在の運転のごく一部、それも補助的な部分だけに限定されることになる。
  さらに、カーライフに代表されるように、人は何よりも自動車を運転したいために自動車を買うのである。あの機械の塊を自ら運転する快感こそが自動車市場の根底にある限り、人工知能による完全自動運転車は実現されない。
  ディープラーニングの仕組みは、科学的・論理的に説明不可能な部分で構成されているため、この技術をそのまま自動運転に採用することは難しい。さらに、教師付学習をするにしても、一般公道でどうやって学習させるのだ。事故体験がなければ学習のしようがない。仮に、今後、人工知能の学習が進んだとしても、完全自動運転の自動車が普及するとは考えられないのである。
  今から45年前になると思うが、宇沢師匠(宇沢弘文 経済学者)が、「自動車の社会的費用」を発表した。日本の自動車社会の到来が社会的費用の増加をもたらし、その結果、いびつな都市交通体系へと変貌する社会のあり方を説き、道路という社会的共通資本の効用の解明を説いた。完全な自動運転自動車社会は、理想ではあっても、現実となることを妨げる様々な要因を産業・社会、人間自体に内在するという矛盾を有することによって実現不能なのである。
 
人工知能は、現代コンピュータ科学の限界を見せた!
 
  このように人工知能技術や人工知能社会を見ていくと、現代のコンピュータに知能を持たせることは不可能であることが、ディープラーニングの進歩によって明らかになったとも言えよう。現代コンピュータ科学の限界である。プロセッサーの数やスピード、記憶容量の問題ではない。コンピュータの原理、機構そのものに問題があり、限界なのである。
  水力や風力をエネルギー源とした粉挽き機、石炭をエネルギー源とする蒸気機関、石油をエネルギー源とした内燃機関と人類は僅か250年の間に科学技術を進歩させた。しかし、一方では、核エネルギーによる発電は、150年前に発明された蒸気タービンによる発電である。核エネルギーを直接電力に変える科学は未だ発見されていない。人工知能も同じである。人工知能らしきアルゴリズムは、脳内記憶機構とは似て非なるニューロンと名付けられた単純なモデルとこれまで不可能であった最適化理論を数値解法により可能としたことのみで実用化されたのである。現代コンピュータ科学の延長線上に人工知能は存在しない。新たなコンピュータ理論の構築が必要なのである。
人工知能によって代替される職業・・単純労働の消滅なんて嘘だ!
  ところで、人工知能の進歩によって、人工知能搭載ロボットやコンピュータにとって変わられる職業について前述のようにどこかのシンクタンクが発表していた。我が国は、移民の受け入れ政策をやっていないから、ダーティワークや単純労働を日本人がやっている。しかし、世界の先進国は、全て移民を受け入れており、こういった職業の多くは移民(難民を含む)がやっている。移民、難民による労働コストと人工知能によるコストのどちらか安いかの単純な損得計算で決まる。靴のメーカの国際化の話は有名である。労働賃金の安い国で10年間製造すると、さらに賃金の安い国を探して移動する。
  この人工知能による代替可能性の高い職業をみると、全て人工知能で置き換えられるかのようになっているが、「何を考えているんだ。馬鹿者」と言いたくなるのは、私一人だろうか。例えば、ゴミ収集員とあるが、ゴミ収集作業の大変さがわかっていない。ただ、ゴミ箱から収集車に積み替えるだけではない。散乱している場合には、それらを集めて掃除をする。生ゴミなら臭いの対策もしなくてはならない。大体、ゴミ箱が定位置にあるなどというのは、ドイツぐらいなものだろう。どでかい金属製のゴミ箱をつり下げて回収する仕組みだが、日本のように、道ばたにゴミ袋が置かれていてネットがかぶせてある場合にどうやって人工知能回収車が回収するのか。
  また、一般事務職というのもある。定型的事務作業なら今もコンピュータ化されている。事務職が重要なのは、定形外の何が起こるかわからない事態への対応である。それに行政事務職というのもある。今でも情報システム化によって行政事務作業の大半はコンピュータ化可能である。あえて人工知能を使う必要もない。行政がシステム化をすると何か不都合なことがあるのか、ワークシェアリングを維持するためなのか、いくつかの理由があってシステム化をしないようにしているのである。
  どうも、単純作業というものは人間の作業ではなく人工知能でやるべきだということを頭から信じ込んでいる馬鹿者がいるようである。これだけコンピュータ化が進んだ状況で、単純作業であっても人間がやらなければならない部分があるとすれば、それなりの理由があるからだ。
  創造的ではない単純作業は、今更、人工知能もへったくれもなく、コンピュータ化することはむずかしくない。コンピュータ化しないのは人件費の方が安く、労働市場があるからだ。移民だけではなく、発展途上国への企業進出等、今や労働市場はグローバルなものとなっている。賃金の安い国で起業すれば経済発展にもなり、新しい市場が生まれる。経済成長は、人工知能よりも優先するのである。
  それでは、人工知能を最も必要とする分野とはどういった分野かである。結論から言えば、知識産業でありクリエイティブな職業こそが必要とする。前述の、シンクタンクが発表した人工知能では代替できない職業こそが人工知能を必要とするのだ。シンクタンクの発表結果とは全く逆ではないか。
  例えば、デザイナーを考えてみよう。彼が商業デザインの新たなロゴの開発をしているとしよう。いくつかの案を思い立ったので、人工知能で検証するとする。人工知能は、画像認識で彼のデザインを読み取り、ネット上にある様々な画像から類似のロゴを検索する。このとき、画像で検索はできないので、言語に置き換えなければならない。ロゴ、デザイン文字、商業デザイン、ロゴのタイプ等々、ロゴの画像から考えられる単語、文章を作り出し、ネット上で検索をして類似画像を認識して抽出する。ここまで人工知能がやってくれれば、人工知能は彼のアシスタントとして十分である。知的作業やクリエイティブな作業には、専門的知識のあるアシスタントが不可欠なのである。一方、単純作業は、手作業が主となるから、ロボットやハンド等の機械装置と一体としなければならない。単純作業の人工知能は、設備投資の負担が多くなるので、簡単には代替できないのだ。
  知的職業やクリエイティブな職業で人工知能が必要となるが、専門的知識のための人工知能プログラムを誰が開発するのだろうか。専門的分野であるから極端に言えば、ある一人のためのソフトということになる。おそらくだれも提供してくれないから、その専門家が自ら開発しなくてはならなくなる。しかし、人工知能の導入によって生産性は数倍以上に高くなることは間違いないので、大企業の研究開発部門やデザイン部門等では、人工知能への大規模な投資が行われる可能性は高い。
  人工知能は、単純作業の職種を奪うことは希である。むしろ、生産性の低い知的職業やクリエイティブな職業で活用される。それも、投資余力のある大企業で集中的な投資が行われる。
 
学者、マスコミが言う人工知能の話題を信じてはならぬ!
 
  人工知能の研究者・学者の言うたわごとを信じてはならぬ。学者、研究者は、とりあえず目立ちたいのだ。少子化で学生の数が減少し、大学の経営は難しくなる一方である。とりあえず人工知能の何たるかを知らなくても、人工知能、人工知能と唱えれば注目される。マスコミも同じだ。
  全ての人工知能なるものは、既存の科学技術の延長線上でしかない。ディープラーニングの登場で人工知能の研究開発が10年縮まったなどと言うのは、真っ赤な嘘であり、逆なのである。人工知能研究の限界が見えたのである。
  現代科学、特に純粋な科学、つまり、宇宙や物質の根源に迫る科学、生命の本質に迫る科学等々は勿論のこと、ソクラテスに始まる哲学、20世紀に進歩した社会科学等々は、20世紀末で終焉を迎えたという本(「科学の終焉」)が1997年に出版されたことがある。著者は、ジョン・ホーガンというアメリカのサイエンスライターである。この本は、科学評論ではなく、どちらかと言えば文芸評論であるが、狙いは面白い。当時の各分野の一流の科学者とのインタビューを通して、純粋理論に新たな発見の余地のないことをだらだらと書き綴る。この中には、既にニューラルネットワークや人工知能についても語られている。20年以上も前の話である。現代科学の大半は、コンピュータによる解析手法の進歩と分子生物学等の分子レベルでの新たな発見にとどまっていることを考えると、あながちこの本の狙いが間違っているとは言いがたいのである。
  科学ニュースには、全て何らかの裏があるのだ。重箱の隅どころではない、些細な発見であっても、天下をひっくり返すような大発見として報道される。コンピュータが囲碁で人に勝ったからといって天下の何が変わるのだ。それも、単なるコンピュータの高速化によってこれまで実用化されなかった数値計算(最適化手法)が可能となっただけであり、人工知能とはほど遠いものだ。
  科学ニュースや報道は、眉につばをつけて接しなければならない。学者、研究者が堕落したのではない。学者、研究者は、元来、堕落しているのである。堕落している者が、さらに堕落するのを見過ごすわけには行かぬ。
 
政策立案に科学は深く関与している?
 
  ところで、政治・政策においても科学・技術は全ての分野で関与する。経済政策では経済学が、エネルギー政策では物理学・工学が、農業政策では農学が、福祉政策では社会学が、医療政策では医学がという具合である。時代の政策分野に対応して大学の学部が作られていると言っても良い。時代の要請がなくなれば、学部も消滅する。政策の立案・評価のプロセスでは、専門家なるものが深く関わっている。原子力委員会などはその代表的なものである。現代科学研究の大きな問題の一つは、重箱の隅どころではない微細な研究となっていることである。これが、70年前であれば、科学といえどかなりマクロな領域の研究であった。原子力、物理学、情報工学等々を振り返ってみればよい。社会科学の分野においてもそうである。70年前の経済学は、まだ、新古典派の時代であった。この頃の経済学の議論の一端は、ボールディングの著作が良く表しており、現代においてもその知識と洞察には感嘆する。
  当時の自然科学、社会科学の多くの研究者は、広い視野でものごとを見ていた。自らの研究分野についても現代のように論文の数で研究実績を問われることもなかった。大体、現在の学会論文なるものの内容のひどさにはあきれ果てる。テーマの設定の妥当性は勿論のこと、結果の検証もろくにない論文があり、中には結論さえない論文もある。100本のうちまあ何とか研究論文と言えるものは数本だろう。前述したように純粋に発見的な研究はほとんどなく、AIに代表されるような手法に関する研究がほとんどなのだ。それならば、今更、半世紀以上前の理論をこざかしく説明するなどは不要である。如何に、社会に役立つかを丁寧に説明するだけで良い。役立つことを説明しきれていなかったり、矛盾があれば、その論文はボツである。ちなみに、アインシュタインがノーベル賞をとった研究は、光電効果であり、相対性理論ではなかった。当時、相対性理論を評価できるものはほとんどいなかった。
  科学の学会なるものが業界と化して己の利だけを追求する。堕落である。学者や研究者は、元来、堕落していると言ったが、孤独、恐怖、欲望の中に生きるのだから堕落なのである。それが、集団となって欲望を満たし始めるとなると、まさに「科学の終焉」であり、堕落に堕落を重ねることになる。
  話がそれてしまった。本題は、政策における専門家の関わりであった。堕落に堕落を重ねる専門家、巨視的に物事をみる習慣のない専門家に政策という総合的な視野などあろうはずがない。誰かが、総合的にまとめなければならないが、現在の官僚あるいは政治家にそれができるのか。科学と政策の絡み合いをどのように整序可能なのか。民主主義や社会主義などのイデオロギーや制度、政治哲学、政治思想等々の問題ではない。細分化され複雑になった科学と社会との関わりを総合化可能な仕組みがあるのかという問題である。政策科学なるもののP-D-Aサイクル等のボケたマネジメントシステム(これも単なる手法でしかない)などでは到底不可能である。
                               2018年3月13日
参考
「90歳。何がめでたい」 佐藤愛子著 小学館
「遺言」 養老孟司著 新潮新書
「Excelでわかるディープラーニング超入門」 涌井良幸、涌井貞美著 技術評論社
「科学の終焉」 ジョン・ホーガン著 竹内 薫訳 徳間書店
「自動車の社会的費用」  宇沢弘文著 岩波新書