赤坂プリンスホテル新館。千代田区紀尾井町1
1983(昭和58)年3月
「ウィキペディア」などを参照すると、赤坂プリンスホテルが開業したのは1955年10月1日で、旧李王家邸が使われたと思われる。1960年10月に5階建の別館が建てられた。それから20年が経って新館の建設が始まり、1983年3月7日に開業した。写真はちょうどその頃のものだ。
設計は丹下健三。39階建(地下2階塔屋付)で階段状の平面で、761室の全ての客室が角部屋になっている。
2001年に全面改装が行われている。2007年に「グランドプリンスホテル赤坂」と改称されたというが、あまり通用したようには思えない。「赤プリ」と言えばクリスマスの宿泊騒ぎと解体工事が話題になった。2011年3月31日でホテルは営業を終了、2012年6月から解体工事が始まり2013年7月に完了した。その後再開発が行われ、2016年7月に「東京ガーデンテラス紀尾井町」として開業した。
居酒屋 まこ、BARABA。横浜市中区野毛町1-53。2010(平成22)年4月10日
当ブログ前回の紅屋菓子店(現カフェ バジル)の横を入ったところ。2階の壁面に洋風のレリーフを施した看板建築がある。ねじり柱、アーチとその中のエムブレム、縦長の上げ下げ窓。関東大震災復興期のものかと疑うほどだ。空襲で焼き払われる前は、こんな建物が普通にあって、それを再現したのだろうか。ストリートビューを見ると、「まこ」は2014年には看板がなくなっていて、2015年には「Go West 24」というバーが入った。
「BARABA」と「スナックすまいる」は「まこ」から右(南)へ4軒目。2014年に取り壊されて2020年に3階建の「ソフィア野毛」(1階に「ビストロ アン クール」)が建った。
「野花商店会」の表示板がついた街灯は2018年頃になくなっている。
紅屋菓子店。横浜市中区野毛町1-53。2010(平成22)年4月10日
野毛本通り(都橋の通り)に面した、今も残る戦後復興期に建てられた商店。左から「占い館 沙羅双樹、ランドリーハウス、紅屋菓子店」。紅屋は廃業した様子だ。そこに2011年には「カフェ バジル」が入った。同じ建物のクリーニング店は2016年1月に「からころ村」という立ち飲みができるから揚げ専門店に替わった。沙羅双樹は1990年頃の開館らしい。
紅屋の建物は看板建築で建てたときの外観があまり改装されずにきたような感じだ。紅屋の看板の横は「日の出不動産」の広告。バジルに替わったときだと思うが、正面の紅屋のロッテの看板が外されて、横の看板が「お菓子 紅屋」のロッテのアイスクリームの看板に替わった。不動産屋の広告を剥がしたらそれが出てきたのだろう。イタリアーノを懐かしく見る人もいるだろうし、以前の店の看板が残っていると町の歴史が分かったような気がして面白い。
野毛本通りから入っている写真左右の横町は、その間の間隔が狭い。この2本の道路は、新横浜通りの桜木橋歩道橋の南から始まり、緩いカーブを描いて京急日ノ出町駅近くの長者橋の通りまで追っていける。『野毛 幻の鉄道路線』で知ったのだが、2本の道路は大正期に鉄道路線を計画した跡である。桜木町駅から大船をつなごうとしたが、関東大震災で計画は中止された。経路は異なるが根岸線の先祖になるのだろうか。
巴荘。横浜市中区宮川町1-8。2010(平成22)年4月10日
写真左が野毛都橋商店街ビルで、その向かい側の木造アパートが「巴荘(ともえそう)」。複雑な外観をしているが、敷地が三角形で切妻屋根の家をL字型に曲げた平面をしている。
写真では手前の店に「明文堂」と「ハンコ」の文字が残っている。今は「トリニチサカバ」というバー。その左は「喫茶みなと」で、今はその店名のままでバーだそうだ。その左は「うおふね」という小料理屋。赤い日よけには「バラエティショップ 北洋」と読めるが、「かりゆし」に替わったのだろうか。巴荘1階の店は今ではみなバーか居酒屋で、でなければ空家らしい。
下の写真は宮川橋の通りの方から見た巴荘の西側。左奥の街灯に「宮川町仲通り会」の表示板が掛かっている。ストリートビューを見ると、この表示板は2017年まではあったが2018年にはなくなっている。
建物角の2階の窓の桟が、建物の要所を意識してか、デザインされている。「かすり」の右の店はガラス戸に「日の出理容院」の金文字が残り、腰壁に白い豆タイルを貼った、廃業した理髪店の外観である。ところがこれが「日の出理容院」というバー。知っている人が入ってくればいいや、という営業形態なのだろう。
野毛都橋商店街ビル。横浜市中区野毛町1。2010(平成22)年4月10日
大岡川の宮川橋と都橋の間の川沿いの道路上に建てられた共同店舗で、ちゃんとした住所はないようだ。宮川橋は宮川町(みやがわちょう)1丁目、都橋は野毛町(のげちょう)1丁目。建物名に「野毛都橋」がついているから住所も野毛町にしておいた。一般に使われている地区名としての「野毛」には野毛町も宮川町も入っているのだろう。
戦後の野毛は多くの露天で賑わった。大岡川から東の横浜の主要地はほとんどが進駐軍に接収されたから、日本人が商売できる野毛がその中心地になったのだろう。路上で営業していた露店を収容するために建てられたのが「野毛都橋商店街ビル」で、建設は市の依頼により「財団法人横浜市建築助成公社」が行った。設計=株式会社創和建築設計事務所(吉原慎一郎)、施行=株式会社小俣組、構造=鉄骨造地上2階地下1階建・陸屋根鉄板葺。
1964(昭和39)年11月21日が落成式。1階は靴、鞄、衣料品などの売店が、2階は喫茶、軽食などの店舗が入った。東京オリンピック開催に間に合わせた形になった(文化庁>野毛都橋商店街ビル。横浜新聞第33号平成29(2017)年)。
2016(平成28)年に横浜市の歴史的建造物に登録された。戦後復興の歴史を伝える建物であること、飲食店街として地域に親しまれていること、河川と一体化したデザインの優秀性、などが評価された結果である。耐震補強工事や改修工事を実施した後、建物は2017(平成29)年12月に「公益社団法人・横浜歴史資産調査会(ヨコハマヘリテイジ)」に寄贈された。
宮川橋から
水明亭。新宿区霞ヶ丘町11。2017(平成29)年12月8日。
霞ヶ丘町(かすみがおかまち)といってもぼくなどは知らなかったのだが、明治神宮外苑である。林の中の一軒家で、不思議な立地だが、ちゃんぽんと皿うどんの店として有名だったらしく、ネット上には多くのサイトで取り上げられている。
創業は1960(昭和35)年で、店舗もそのときに建ったのだろうか。「明治神宮外苑水泳場(神宮プール)」の横に出店したので「水明亭」の店名になったそうだ。2018年10月31日で閉店した。「閉店のお知らせ」の張り紙には「建物所有者の事業変更に伴い」とあったが、事情はさっぱり分からない。
「ありゃりゃサンポ>ちゃんぽんの水明亭の跡地」を見て驚いた。水明亭の外壁裾の石積部分が残されて休憩場に替わっている。その案内板には「この広場一帯は、かつて水泳場東側苑地と呼ばれ、明治神宮外苑創建時(大正一五年/1926年)に建造された北部大番町寄休憩所の建物がありました。/この休憩エリアは、歴史的な建造物を後世に伝えるべく、建物の形状を一部復元し、使用されていた石材を再利用しております。/令和元年8月 明治神宮外苑」とある。北部大番町寄休憩所を土台にして水明亭を建ててしまったということになりそうだが、そのへんに案内板が「水明亭」に言及しない理由があるかもしれない。
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慶応大学北里記念医学図書館。新宿区大京町(だいきょうちょう)35。2017(平成29)年12月8日
『三田評論2011年12月号』によると、慶応大学信濃町キャンパスの医学図書館は、昭和46年に「医学情報センター」、平成5年に「医学メディアセンター」と改称されているが、普通は「北里記念図書館」の名称が使われているらしい。
北里柴三郎は初代医学部長。北里が没して3年後、昭和9年に博士を記念するための北里博士記念医学図書館建設会(会長は長山本達雄、日本銀行総裁、大蔵大臣等を務めた実業家、政治家で、当時義塾評議員会議長)が作られ、2600人から30万円の寄付によって昭和12年(1937年)10月に竣工した。
設計者は和田順顕(「横浜郵船ビル(昭和11年)」が有名)、施行は清水組。構造はRC2階建。
北里記念医学図書館、背面
慶応大学予防医学教室。新宿区大京町(だいきょうちょう)30。2017(平成29)年12月8日
JR総武線信濃町(しなのまち)駅前の慶応病院(慶応大学信濃町キャンパス)の裏に、通りを隔ててつい最近まで3棟の昭和初期に建てられた慶応大学医学部の建物が並んでいた。北から「予防医学教室」「北里記念医学図書館」「慶応大学病院別館」だが、別館は2009年に取り壊されて、「大学病院3号館(南棟)」に替わった。
予防医学教室(校舎)の建物は『日本近代建築総覧』では、「慶応大学予防医学教室、新宿区大京町30、建築年=昭和4年、構造=RC4階(地下1階)建、設計=曽禰・中条建築事務所、施行=清水組、備考=「曽禰・中条建築事務所作品集」による、一部鉄骨、塔屋」。
『三田評論2014年2月号』によると、総工費39万9千円の大部分17万5千ドルがロックフェラー財団からの寄附による、という。
また、昭和20年5月24日未明の空襲で、木造だった病院の主要部分は全焼した。その際、学徒挺身隊80名と看護婦270名、医局員、学生の敢闘によって、入院患者180名全員を別館や国民学校に避難させ、予防医学教室、図書館、別館を焼失から守ったという。病院に焼夷弾を大量にばらまくとは、米軍はなにを考えていたのだろう。
慶応大学予防医学教室、南側面
近江屋写真用品両国分室。墨田区両国3-19。1986(昭和61)年9月7日
写真左の通りは京葉道路(国道14号)で、両国橋東の両国橋交差点と緑一丁目交差点との中間辺り。現在は「文友社ビル」(1991年1月築、8階地下1階建)が建っている。
戦後まもなくの建築と思われる建物は「近江屋写真用品株式会社 両国分室」と「近江屋倉庫」。
倉庫は写真をよく見ると石積みのように見える。『上浅青果店、春日屋米店/両国2丁目』に載せた「昭和20年9月28日」の写真の、両国国技館の左に見える焼け跡に残る建物がそれではないか。
『デジカメWatch>2016.01.26』の記事によると、近江屋写真用品株式会社は写真機材卸業者の大手で、HANZA(ハンザ)という写真用品のブランドでも知られていた。1915年の創業。デジカメなどの普及で業績が落ち込み、電子映像関連に携わるも2004年10月にはフジカラーイメージングサービスに営業譲渡して解散した。
1989(平成元)年6月25日
純喫茶 白鳥。墨田区両国4-33。1986(昭和61)年9月7日
JR両国駅の南の京葉道路(国道14号)の両国三丁目交差点を北へ入ったところ。現在は「大衆酒蔵 日本海 両国店」が入っていて、外壁などが改修されている。玄関上部、2階の2連アーチ窓のステンドグラスは残っているがその右の六角形の窓は潰された。
1969(昭和44)年の住宅地図に「白鳥ビル」で出ているので、そのビルと思われる。1965年頃の建設になるのだろうか。
撮影した頃には白鳥のはす向かい(両国3-24)に「高砂部屋」があった。そこには「ヴィラロイヤル両国」(1980.08築、7階建21戸)というマンションがあるのだが、その1階が高砂部屋だったのだろうか。