三貴ビル。中央区銀座3-10。2010(平成13)年2月1日

昭和通りの西の裏通り(中京430号)で、写真右にあった建物(芙蓉ビル/三共㈱別館、林、めぐみ、みどうすじ)が取り壊されて、三貴ビルの全体が見えている。
三貴ビルは小さなビルだが、角を丸くして、各階のガラス窓も丸くして、水平にビル全体に回しているのが瀟洒で、人目を引いていたと思う。壁の文字は、通り側1階に「三貴ビルディング」と「青写真 / 東北工株式会社」、路地側の4階上に「靑寫眞 blue-print / 東北工株式會社」。青写真(あおじゃしん)というのは、主に建物・機械の設計図のコピーに使われた複写技法。1975年頃からは現行のコピー機に替わっていった。
昭和30年(1955)頃の火保図に、「銀座東三丁目2」の住所にある「三貴ビル(コンクリート造5階建)」と思われる。2011年頃に取り壊され、跡地は平屋の建物で営業する「紫龍」というラーメン店になった。

 

コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

 

Unknown (ル)
2023-11-29 23:32:16
はじめまして。2001年辺りにストリートアーティストの「invader」が銀座3丁目の建物に付けた作品について調べていて、そちらのブログを発見しました。貴重な写真がたくさん載っていて、もしかしたら情報があるかもしれないと思ってコメントさせていただきました。
現在の長浜屋台やまちゃん銀座店の向かいに、福原ビルという建物がありましたが、ご存知でしょうか?ネット上で見つけた写真では白色になっていますが、2007年までは焦げ茶色だったことが分かってます。その状態の写真ありますでしょうか?
よろしくお願いします!

 

福原ビル (流一)
2023-11-30 14:30:32
残念ながら福原ビル(銀座3-12)は撮影した記憶はありません。ストリートビューで見たのですが、もし今も残っていたら撮りたくなるようなビルですね。
 

 

Unknown (ル)
2023-12-02 06:41:26
返信していただきありがとうございます!
もう一つ質問させていただきたいのですが、銀座3-13-10あたりのどこかでまた別の作品が設置されましたが、場所が全く分からなくて手がかりを探しています。ヒントとなるものは下記のリンクの写真だけで、おそらくなんらかのお店の中かと思いますが、心当たりありますでしょうか?
宜しくお願いします!
https://drive.google.com/file/d/1tsVxgTxUtCo-XSgce4TynQj6q--pIEFf/view?usp=drivesdk

 

>ル様 (流一)
2023-12-03 09:16:39
マガジンハウスがある辺りですね。私にも全く分かりません。

 
Unknown (ル)
2023-12-11 12:22:23
返信していただきありがとうございます。もう少し調べます!


川梅商店。中央区銀座1-24。1988(昭和63)年2月14日

写真手前が、新富町から新富橋を渡って銀座1丁目に入ったすぐの四つ角で、右奥への通りの向かい側は京橋公園。右手に銅板張り看板建築があるが、そこから手前の角の家まで、戦前築の看板建築と思われる。現在も銅板張りの家が「鮨 石島」になって残っている。その手前は「銀座マスキービル」(1992年11月築、8階建)と「パークサイド銀座」(1993年4月築、9階建)というオフィスビルに建て替わっている。
「川梅商店」は、そのHPによると、「創業以来「生かんてん」を中心としたあんみつ材料、和甘味食材の製造卸販売会社」。本社と店舗が築地3丁目にある。創業は1899(明治32)年。写真の店舗(兼工場?)は関東大震災で被災した後、1924(大正13)年に再建したもの。1966(昭和41)年に本社を築地へ移転する。「1983(昭和58)年「Sweet Shop KAWAUME」現住所(築地)に移転」ともあるから、それまで写真の店舗が使われていたのかもしれない。
昭和30年頃の火保図では、住所は「銀座東1-15」で、写真左から「桜井印房、川梅ミツ豆材料、砂場そば、木挽町食料配給所」。砂場は昭和10年頃の火保図に「そばや」とあるから戦前からの店だったのかもしれない。銅板張りの家は米屋だったわけだが、1986(昭和61)年の地図でも「中央精米」。


三原ビル。中央区銀座4-8。2000年(平成12)年1月18日

晴海通りの、最近まであった三原橋センター(三原橋地下街)から北へ入ったところで、写真の通りは三十間堀川を埋め立てた跡の道路。Googleマップでは「中京429号」となっている。戦後、三十間堀川は戦災残土の処理場とされ、昭和27年7月に埋め立て工事は完了している。写真の通りの中央がかつての川の中央になり、川の両岸は建物が建った。そのため、そこに建った建物は南北に長く、幅の狭いものが多い。三原ビルもそんな形のビルだ。
昭和30年(1955)頃の火保図に「三原ビル(コンクリート造5階建)和泉金属KK/ニュー東京観光バス」と載っているビルと思われる。2013年に取り壊されて2015年9月に、現在の8階建地下1階のビルに建て直された。「串八珍」は新しいビルに移っている。写真奥の赤い看板は「和人餃子房 俵屋」。


奥野ビル、中央区銀座1-9。1990(平成2)年1月21日

中央通りの東の2本目の裏通り(銀座三原通り、平成元年度の命名)にある、有名なレトロビル。『 nippon.com>銀座で…』や『 buuuu chan’s Trip>かつての銀座アパートメント…』によると、オーナーの「奥野商会」の先祖がアパートとして建てたビル。「銀座アパートメント」の名称だった。RC造6階地下1階建て、7階が増築されている。2棟のビルが接していて、南側(左)の「本館」が1932(昭和7)年、北側の「新館」が1934年の竣工。各階に通路があるようだ。全70室の各部屋は3.5坪ほどのワンルーム。現在はギャラリーやアンティークショップなどが主に入っている。銀座の高級アパート、と言われたらしいが、ワンルームマンションだったわけだ。「奥野ビル」と名称変更したのは昭和32年。
設計は川元良一で、施主と交友があったという。九段会館(軍人会館、昭和9年)の設計者である。同潤会の建築部長を務めたこともあり、それもあって集合住宅の設計を依頼されたのだろうか。
外観も内部もあまり改修せずにきて、今ではかえってそれが人を引きつけている。建物を見学に来る人もけっこういるようだ。日々変化している銀座に、昔と変わらない空間がある、というのが老人にはほっと出来るし、若者には興味を引かれるのだろう。


2009(平成21)年8月21日
大日本図書ビルが取り壊されて奥野ビルの南の側面が見えている。


Zoo、益子。横浜市中区野毛町1-43。2010(平成22)年4月10日

野毛町1丁目と2丁目の境を南北に通っているのが「野毛小路」で、そこの野毛中央通りとの交差点から少し入ったところから南の方向を見ている。写真右端が柳通りとの交差点。並んでいる建物は今も変わらない。
戦前の看板建築のような外観をした「Zoo」は、食べログの投稿記事によると2008年開業のダイニングバー。ストリートビューを見ると2021年頃に「地酒立ち呑み 酒母(しゅぼ)や」に替わっている。「やき鳥 益子」は、創業35年くらいになるらしい。
益子の右の建物は看板建築の四軒長屋のように見えるが、かなり大きい建物で、アパートに分類できるかと思う。野毛小路側に2階への入り口が2箇所あり、片流れ屋根である。Googleマップでは「第二・第三港興産ビル」となっていて、東に建っている写真のアパートよりいくらか小さい規模のアパートと一緒の名称のように思える。写真のアパートには「港興産」という不動産業の会社が入っているから、その会社の持ち物かもしれない。1階の床屋は「ヘアーサロンメトロ」。2014年以前に2階に移り、1階には「野毛ホルモンセンター」が入った。2015年にはメトロは廃業したらしい。

 
左:山荘。横浜市中区野毛町1-28。右:亀鶴。野毛町1-36。2010(平成22)年4月10日

「世界のカクテル 山荘」は野毛中央通りの中程にあった。写真右の路地は「野花商店会」の表示板が街灯についていたが、2017年に外されている。ストリートビューを見ると、建物は2014年に取り壊されてコインパークになってしまった。店は野毛柳通りに移っている。「食べログ」の口コミによると、1955年創業の老舗バー。ジュークボックが人気で、昭和歌謡やオールディーズがいつも流れているらしい。

「亀鶴」は山荘横の路地を山荘の向かい側に入ったところにあった。廃業してだいぶ経つような感じだが、2014年以前には建物はなくなっている。


きりたんぽ、神谷運送。横浜市中区野毛町1-15。2010(平成22)年4月10日

写真の家並みは「野毛 幻の鉄道路線」の跡の道路で、「野花商店会」といった通りだったようだが、その表示板のついた街灯は2017年にはなくなっている。写真左奥が「野毛中央通り」との交差点。その角の家は住居になっていて、そこから手前に、「スナック 炎、田舎料理 きりたんぽ、神谷運送株式会社、バー R」。
ストリートビューを見ると、現在は、炎が空き地に、きりたんぽは2014年以前に「酒場 ふくちゃん」に替わり、2018年に4階建の小さなビル建て替わった。神谷運送は2017年に住居のような家に建て替わったが会社は続いているようだ。「R」はすでに創業70年の老舗で、この界隈では珍しい本格的なバーなのだそうだ。


旧バラ荘。横浜市中区野毛町1-12。2010(平成22)年4月10日

野毛 幻の鉄道路線」の跡に建っているアパートで、正面は「野毛柳通り」に面している。建物の東と西側は「野花商店会」の表示板が街灯についていたが、2017年にはなくなっている。
建物の外観は幾つもの家がくっついているように見えるが、航空写真で見るとわりと大きな一つの建物で、Google Mapでは「野毛建物」となっている。現在、入っている店は、「大衆肉酒場 武田屋、オーシャンバー旧バラ荘、スナックつばさ、スナックKEIみすぎ、沖縄料理 守礼の邦」で、撮影時とほぼ同じ。
野毛飲みcom>旧バラ荘」によると、「旧バラ荘」は1949(昭和24)年の開店で、現在の4代目店主は「バラ荘」という店名を残したとういことらしい。店内の調度などは開店時のものという。野毛建物が建ったときに開店したのだろうか。



写真の店は「居酒屋 圭」が閉店して、2013年に武田屋が開店。



守礼の邦(野毛建物の野毛柳通りの側と西側)


上智大学クルトゥルハイム。千代田区紀尾井町7。1983(昭和58)年3月

上智大学四谷キャンパスにある、ミサと結婚式が行われる建物。クルトゥルハイムとはドイツ語で「文化の館」を意味するそうだ。「クルトゥルハイム聖堂」とも言われるらしい。『日本近代建築総覧』では「上智大学聖堂」としている。陸軍の軍人だった高島鞆之助(1884-1916)の邸宅として、明治30年代に建てられた洋館。1912(明治45)年に学校設立のため、カトリック修道会イエズス会が購入した。内部、特に2階はかなり改装されていると思われる。
「ネオルネッサンス風を基調とした建物で、外壁は、装飾を抑えた比較的シンプルな仕上がりとなっており、1階部分は石積み風、2階部分は茶系のタイル貼り、軒下から屋根廻りは木仕上げにするなど建物に変化を与えており、ペディメント(三角破風)を配した玄関が重厚な印象を与えている」( Visit Chiyoda(千代田区観光協会))。

ホテルニュージャパン
千代田区永田町2-13
1989(昭和64)年1月4日

山王切通坂から撮ったホテルの裏側。ホテルニュージャパンが火事になったのは1982(昭和57)年2月8日で、解体されたのは1996年なので、撮影したのはその中間になる時期だ。
『ウィキペディア>ホテルニュージャパン』によると、建物はRC造10階建地下2階、客室は513室。Y字型平面のビルが3棟接続した複雑な構造である。どの客室からも外が見えるようにしたためだ。設計は佐藤武夫(1899-1972)。ホテルの開業は1960(昭和35)年3月22日。Y字型ビル2棟350室での開業らしい(ジャパンアーカイブズ>1960年)。

ホテルニュージャパンの地下にあったニューラテンクォーターの『ウィキペディア』の記述を見ていたら「最終的に廣済堂会長の櫻井義晃に売却された(1979年のことらしい)」とあるので驚いた。廣済堂という印刷会社を知っていたので櫻井氏(故人)の名前は聞いていたからだ。地味な印刷会社の社長がナイトクラブのオーナーになるとは! ゴルフ場も経営したというから、いろいろと手を出したのだろう。櫻井氏は児玉誉士夫と知り合いだったと聞いていたので、その関係で食い込んでいけたのかも知れない。