京都通になれる雑学知識100 [Kyoto 32] | 龍虎俊輔の独り言-無心是我師-

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《 京都通になれる雑学知識

第2章
古都・京都にある寺社の謎

- Kyoto 32 -
【 東 福 寺
東福寺の大伽藍と焼け残った
大仏の左手

京都で大仏と言えば、
方広寺大仏が思い浮かぶが、
東福寺にも明治まで大仏が存在した。
残念ながら火災に遭い焼失したが、
大仏の左手は
奇跡的に焼け残った。


奈良の東大寺と興福寺を目標に
創建された東福寺と大仏

東福寺は、
1つ1つの伽藍が大きく、
空を見上げるようにして伽藍を巡りましょう!
南側の勅使門から三門、仏殿(本殿)、方丈と、
北に向かって
伽藍が直線上に並んでいます。
これは
禅宗寺院の特徴で、
南禅寺、建仁寺、相国寺などにも共通して見られる
伽藍配置である。
創建にあたり、
「洪基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」という
理念があったという。
この理念は、
大いなる礎と隆盛を奈良の東大寺と興福寺に範としたもので、
そこから「東」と「福」の1字ずつを取り、
「東福寺」という寺名になっているそうです。
伽藍の建立は、
1236(嘉禎2)に始まり、
当時の関白・九条道家は、
東大寺の大仏を念頭に描いたという。

あのような大きな仏像もできないものか・・・」 と

果たして
関白の力の働いたのか?
定かではないが、
1243(寛元元)年頃に
東福寺大仏の造営が決定した!

同年6月13日、
鎌倉の大仏の開眼供養が行われています。
そして、同じ日に
この東福寺大仏の開眼供養が行われたのである。


奇跡的に焼け残った左手は
大仏存在の生き証人!


東福寺に大仏が存在したという歴史は、
仏殿(本殿)に残されています!
仏殿の2層になった屋根と屋根との間の扁額が
見ることが出来ます。
そこには、
「毘盧寶殿」と
記されています。

毘盧舎那仏(又は盧舎那仏)の建物を表しており、
ここに大仏の鎮座していたことを
伺わせるものだ。
残念ながら、
東福寺大仏は焼失してしまったので、
大仏の姿を見ることが出来ません!

東福寺は創建以来、
火災とは無縁の寺だと思っていましたが、
調べてみると
1881(明治14)年12月16日に
仏殿と法堂が火災!
この火災で大仏も被害を受け、焼失したという。
しかし、
奇跡が起きた!
巨大な左手だけは救出されたことだ!
この手の大きさは、
m!
仏殿の厨子に
大切に納められているそうです。
この左手の大きさから
東福寺大仏の大きさを推定すると
高さが約15の木造大仏だったと
言われています。

因みに、
東大寺大仏の高さが、
15m!
鎌倉大仏の高さが、
13.35m!

このDATAで比較すると、
東福寺大仏は、
他の大仏と遜色ない大きなものだったと言えよう!

現在の本堂仏殿は、
1934(昭和9)に再建されたもので、
高さ25.5m、間口41.4mと
巨大な建物である。

本尊として
釈迦三尊像が祀られています。



☆東福寺とは・・・☆
東福寺
は、
京都市東山区本町十五丁目にある
臨済宗東福寺派大本山の寺院。
山号を慧日山と号する。
本尊は釈迦如来、
開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。
京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。
明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、
今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。
■ 境 内 ■
三門、本堂、方丈、庫裏などからなる
主要伽藍を中心に25の塔頭寺院がある。
主要伽藍の北には洗玉澗という渓谷があり、
西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という
3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。
通天橋は、
本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、
この付近は特に紅葉の名所として知られる。
橋を渡ると、
開山円爾を祀る常楽庵がある。
応仁の乱の戦火を免れた貴重な文化財が数多く存在する。
-Wikipediaより(抜粋)-


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