《 京都通になれる雑学 》
第 1 章
古都・京都の歴史を知る町歩き
- Kyoto 14-
桂小五郎の潜伏の陰に幾松あり
明治維新の立役者・桂小五郎は、
幕末、京都に潜み、倒幕に暗躍した。
その暗躍できたのは、
1人の女性の支えがあったからである。
維新の陰のヒロイン。
■ 逃げの桂か、それとも運か。
池田屋に不在だった小五郎
新撰組・近藤勇ら隊士が襲撃した「池田屋事件」は、
前項(Kyoto 13)で紹介しましたが、
実は・・・
この襲撃事件に運良く遭遇せずに
難を逃れた人物がいるんです。
その人物こそ、長州藩士・桂小五郎である。
後の木戸孝允だ。
桂は池田屋での密議に参加する予定だったが、
約束の時刻よりも早く着いたため、
一旦、池田屋を離れ、
三条上ル恵比須町にあった
対馬藩邸に立ち寄っていたのである。
当時、
長州藩と対馬藩は、親密な関係にあったようだ。
時間潰しだったのか?
何か用事があったのか?
定かではありませんが、
池田屋から近い対馬藩邸は、
桂にとっては足を運べる場所だったのだろう。
実は・・・
長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)も
目と鼻の先にあったんですがね。
対馬藩邸にいた桂は、
事件に巻き込まれずに済んだのである。
多くの志士が、
死を遂げた事件を免れたことで、
世間からは “逃げの桂 ” などと
陰口を叩かれるようになった。
逆を言えば、
強運の持ち主だったかもしれない。
■ 追われる桂を守り通した
芸妓・幾松の献身
木屋町通御池上ルに、
京の風情を漂わせる料理旅館「幾松」があります。
この建物の1階には、
芸者・幾松が
身を寄せていた部屋「幾松の間」が
残っています。
今では取り払われていますが、
当時は幾松の間には、
不意の敵に備えて天井に大石が隠れていた。
また、
幾松が隠れた長持、部屋から
鴨川べりに出られる抜け穴などが
幕末の緊迫を偲ばせますね。
こんな逸話が残っています。
幾松は情報収集のために、
身をやつして二条大橋の下に隠れていた桂ら
握り飯を差し入れていたという。
幕吏の厳しい追跡を逃れ、
潜伏の身であった桂を、
幾松は見を挺して支えたという。
美談ですねぇ~(^_-)
桂と幾松は、後に夫婦となり、
幾松は松子夫人として、桂に尽くした。
桂は明治維新後、
政府の中枢となり、
廃藩置県、版籍奉還にどに尽力した。
西郷隆盛、大久保利通と並び称される
“維新の三傑 ”である。
しかし、
この三人はいずれも短命なんです。
幾松こと松子夫人は、
桂の死後、出家して、翠香院と号した。
1886(明治19)年4月10日、
京都・木屋町で胃病を悪化させて死去してしまった。
享年44だった。
桂と松子の墓は、
京都霊山護国神社にあります。
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★ 龍虎 俊輔 ★
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