死の壁 | 猿の残日録

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いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

7月30日(月) 18:56 

  29℃ 84%  風速 8m/s位 なので、21℃近い体感温度

  湿度は高いが快適   蚊がいないからいい

  本当は、きれいなの夕陽だが、ガラケーカメラは ブレブレ

 

7月31日(火) 19:12

 

  夕陽は大きかったが 撮れなかったので、その後の写真

 

 

シャンリーチー

 

  凍頂烏龍茶(とうちょううーろんちゃ)は、台湾で製造される台湾茶で、青茶・烏龍茶の一種。

  爽やかな香り

  アレルギー反応を抑制するメチル化カテキンの含有量が多いことから、花粉症に有効

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死の壁 2004年出版 養老孟司 著

 

  以前読んだ本 でした (;^_^A

 

7年前、当時 76の親戚のおじさんと話していて
「怪物」と呼ばれている人です

筋骨隆々なんてものではなく、毎日ジム通いと水泳です
片腕で40kg上げるとか

腕、一般人の タテ2倍xヨコ2倍近く あります

今はさすがにおじいさんっぽくなってるようですが
ちょっと見た目はやはりすごい感じが
腕の太さから常識外れなんで

それはいいのですが、当時話していて
「死ぬ気がしない」という話が出た時
その前に、「もう思い残すこともない」という話もあり
人生に満足されているのですが

元気で幸せであって、「死ぬ気がしない」とは
なんと陽気な沖縄らしいと思ったのです



今最も読みたい「金色夜叉」は図書館にしかなく、手元にないので、

 

借りてる本の中で

養老孟司さんの本を続けて読んでいて「死の壁」読みました


この本は、2004年出版 新聞の書評だったかで、死には3種類ある
というところから、かなり昔に読み、大変参考になった本です



死の3種類 は、鮮烈に憶えていますが、ほかは、あまり印象に残らなかった本でした


10年は経って、本を読むのに時間もたっぷりある今
また読んでみて、怪物おじさんの話を思い出しながら
書いてみます



人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。
そんなことはない、と仰るかもしれません。

(中略)

こうした勘違いが生まれたのが、おそらく十九世紀です。
情報化社会が生まれてから、人間の意識が変わってきたのです。

ここでいう情報化社会とは、いわゆるテレビやインターネットの普及といった
現代において使われている意味のみを指しているわけではありません。

本来、日々変化しているはずの人間が不変の情報と化した社会のことを指しています。

これまでに何度も書いてきたことですが、ここでもう一度簡単に説明をしておきます。

通常使われている「情報」という言葉と、私のこの言葉の使い方が少々違うので
戸惑う方が多いからです。

本来、人間は日々変化するものです。
生物なのだから当たり前です。
眠っているあいだにも身体は変化している。
脳細胞だって変化している。

それでも毎日目が覚めるたびに「今日の俺は昨日の俺とは別人だ」と思うようでは
社会生活も何もあったものではない。
だから、意識は「昨日の俺は今日の俺と同じだ」と自分に言い聞かせ続けます。

日々変化する自分とは反対に、変わらないのが「情報」です。

情報が変化するというのは勘違いで、実はテープに録音したお喋りは、何年たっても変化しません。
テープレコーダーに入れて再生すればまったく同じ。
三年たって聞き直したら考え直していたなんてことはありません。

人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである、というのが本来の性質です。
ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です。

これが私が言うところの「情報化社会」です。

「私」は変わらない、変わっていくのは世の中の情報である、という考え方の社会です。
脳中心の社会と言ってもいい。


このように「人間は変わらない」という勘違いから妙な疑問が湧いてきます。
「俺は俺」「私は私」で不変の意識であるはずだ。
不変だとすれば、どうしてそれが消えなくてはいけないのか。
なんで死ななきゃならねえんだという疑問です。

もちろん、よほど変わった人でない限り、「俺は不死身だ」と言い張りはしません。
それでも、情報はローマ時代から残っているのに自分は死ななくてはいけないということが
納得できていないのではないか。

「変わらない自分」が存在しているのに、どうしてそれが死ななくてはいけないのか、
ということです。

昔の人もこの矛盾もしくは理不尽には気づいていました。
だから「魂」という概念を作り出した。
そして自分が消えても意識は残るはずだ、ということを「魂が残る」というように考えて、
納得していたのでしょう。

しかし、近代に入ると、科学はその「魂」という考え方を否定してしまった。

「進歩した人間が魂を信じるのはおかしい、科学的ではない」ということで話を進めてきた。

今では特定の信仰を持っている人以外は、「魂」を心底信じるとはあまり言わない。

さあこうなると答えがなくなってしまいます。
「魂は無い。でも俺の意識は不死身のはずだ」では矛盾してしまいます。

そこでどうなったかといえば、「何が何でも死なない」という意識が出てきたのです。

何度も言いますが、そんなことを声高に主張している人が現れたという意味ではありません。

しかし、どこかでそういう意識を持ってしまったということです。

(中略)


もう少し、「俺は俺」「私は私」ということについて補足しておきましょう。

この思い込みを打ち破ることはかなり難しい。

常に変わらない自分が死ぬまで一貫して存在している、という思い込みが

多くの日本人の前提になっています。

あまりに一般化しているので、かえってそういう思い込みがあるといっても
ピンと来なかったりするようです。


おそらくこの思い込みというか論理は、なかなか破られにくいものだからこそ
一般化したのでしょう。
破られにくいのは、たとえ他人から指摘されても「変わった部分は本当の自分ではない」
という言い訳が常に成り立つからです。

たとえば恋愛の末、結婚をして夫婦になった。

しかし十年経ってみて相手のことが嫌になった。別に珍しいことではありません。

このときに、「私は私」という意識が前提になっているとどう思うか。
「あのとき、あの人を好きだと思っていた自分は本当の自分ではなかった」という論理が
展開できるわけです。

「今、あの人を見るだけで虫唾が走る。その気持ちを持っている自分が実は本当の私なんだ」
ということです。


この論理はいくらでも自由に使えます。

個人に限らず、たとえば戦争中と戦後の日本の変化についても使えるわけです。

「あの時は血迷って戦争をしかけたけれども、あれは本当の私たちではないのです。
今の平和な私こそが本当の私です」ということです。

どんなに自分が変わろうと、常に今現在の自分を「本当の自分」だとしておく。

「変わった部分は自分じゃない」とする。

本当はそんなはずはないのだけれど、これを繰り返していれば、いずれ寿命は来ます。

だから、論理としてはおかしくても、破城はしないということになる。

最後は死んだ自分が本当の自分で、「話が違う」と言われたところで痛くも痒くもありません。

もちろん、日常生活のなかで「あの時は考えが足りなかった」と反省をするということは
悪いことではありません。

「男を見る眼がなかった」という人もたくさんいることでしょう。




ここで問題にしているのはそういうことではなくて、
「あの時の自分は、本当の自分ではなかった。本当の自分を見失っていた」という理屈です。

そんなことはあり得ないのです。
今、そこにいるお前はお前だろう、それ以外のお前なんてどこにいるんだ、ということなのです。
「自分探し」などと言いますが、「本当の自分」を見つけるのは実に簡単です。
今そこにいるのです。


近代化とは、人間が自分を不変の存在、すなわち情報であると勘違いしたことでもあるのです。

それ以来、実は人間は「死ねない」存在になってきました。

これが近代特有の意識であることは昔の文学を読めばわかります。

「平家物語」や「方丈記」など、中世の日本文学に代表される思想というのは、
人間は移り変わるものだ、という考え方だったのです。

この考え方が情報化が進むことで消えてしまった。






延々と、わかりやすく具体例をあげて書いておられます

だんだん、何を私が感じたのか、わからなくなってきましたが

この年になって、あらためて、昔は軽く読んでいた部分に興味をひかれて
ということです


図書館に行って、金色夜叉の続きを早く読みたい