丸デブ | 猿の残日録

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いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

岐阜 都ホテル 95年オープン

  「岐阜ルネッサンスホテル」として開業  22年経つ

 

 ルネッサンスリゾートオキナワ と同じ ルネッサンス だったが、

 2005年、ルネッサンス・インターナショナル社との提携関係を解消

 近鉄・都ホテルズ の運営になった

 リフォームがどれだけかけられるかで、かなり印象が変わる

 

  ランチが、3500前後は、当地では、妥当な価格である が

  沖縄のリゾートホテルのディナー並の高さなので、正直、驚いた

 

  写真で見ても、なぜそれだけ高いかは、食べないとわからない

  おそらく、その価格が本来の適正価格であって、沖縄の価格が

  どこかおかしく安すぎるのだろうと思う

 

  税金面か、優遇策か、人件費か、観光客数か おそらくどれかで

  沖縄は安価に提供できるのだろう

 

  それがいい事かはわからないが、一消費者としてはありがたい

 

  ツイン 38㎡ から、パノラマスイート 64㎡ にアップグレード

  してもらえた

 

  長良橋に近い パノラマスイートなら、花火が、リビングと寝室から

  見られるのだろう  風呂からは見られないはず

 

  今回の 707 は、その反対側

 

 

長良川と金華山を、バスルームから見るタイプ 707
 
  岐阜城が、南東に、風呂の窓から真正面に見える
  対岸 400m先に、十八楼 1860年開業 157年経ってる宿
  そのずっと上にお城
 
 
トイレが2つ、コーナーとはいえ、部屋が2つ TV2台、電動カーテン
面白い部屋でした
 
アーリーチェックアウト 10時に出る 朝付き 11400 x 2名
 
  首里の都ホテルは、地元割り 10000以下で、2食付き
  部屋も(眺望は別として)立派 食事も立派
  年数はやや古いが、それなりにリフォームされ充分
 
土地土地で、同じ系列であっても、色々ちがいがあると知る
 
 
岐阜高島屋の向かい 通りから、1軒入った店  44年ぶりに行く
 
丸デブ 中華そば と わんたん だけ 2メニューの店
 
中華そば

  相棒はゆっくりしか食べられないので、麺がのびるかと思ったが、

  のびない  結局、中華そば 2杯、わんたん 1杯 食べた

 
 
わんたん とは、本当に、わんたん だけ 麺は無い が うまい
 
 

 

「信長交響曲」  「へうげもの」

 両方読んでるので、織田信長の印象がかなり変わってきてる自分に

 とまどってます

 

 

岐阜城について Wiki より

 

1567年(永禄10年)9月
 - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応
  により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。
  龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
 
同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
  古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに
  因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。
  この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、
  本格的に天下統一を目指すようになった。
 
1576年(天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、
  織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。
  岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。
 
1582年(天正10年)6月2日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、
  留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握し、
  美濃瑞龍寺・崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた。
  しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると6月20日頃、不破郡長松に
  出向き織田信孝らに服した。
 
同年6月27日 - 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、
  岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。
 
同年12月20日 - 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵
  が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。
 
1583年(天正11年)4月16日 - 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し
  再度挙兵。
  しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、
  兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。
  城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。
  その後、信孝は切腹させられた。
 
同年5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、
  池田元助が岐阜城主となる。
 
1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。
1585年(天正13年)恒興の次男・池田輝政の居城となる。
1591年(天正19年)4月 - 転封により、輝政に代わって
  豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。
 
1592年(文禄元年)9月9日 - 豊臣秀勝が没すると、
  織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の
  城主となる。
 
1600年(慶長5年)
  - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。
   関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や
   池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。
   秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する
   (のち1605年(慶長10年)に死亡した)。
 
1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、
   奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。
   その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは
   加納城に、御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。
   岐阜城が山城であることに加えて、かつて信長が天下取りの意思
   を込めて命名した「岐阜」という地名を家康が忌み嫌った

   (徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだとも
    いわれている。
 
1956年(昭和31年)7月25日
   - 鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成。