暮しの手帖 随筆 から | 猿の残日録

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いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

 
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Cafe Boaco で読む 暮しの手帖 編集者の目的通り
時々、読み応えのある文書がある 記憶に残る


仕事は、Doing でなく、Being にする (だったか)
修道院で言われた言葉 とか

今日は、こんな随筆が良かった

言わなければ良かった 森博嗣(もりひろし・作家)


僕は、四十八歳まで国立大学工学部の教官だった
二十四歳のとき、学生からの連続で就いた仕事だったから
好き勝手なこと(つまり研究)ができて給料がもらえるなんて
幸せだな、と感じていた


ただ僕の母は、息子が「大学の先生」になったことを
喜んでいるみたいだった


それは、職が安定しているということよりも、やはり
古い人だったから、学者とか博士というものにステイタスがあ
ると
認識していたためだろう


そういうことは薄々わかっていて、僕も息子として
母が喜ぶのならば、という気持ちがなかったわけではない


しかし僕自身は正直なところ、そういった価値観はない


職業は、人間の価値とはまったく別のものだ、と考えていたし
僕の父も、大正生まれにしては自由な思想の人で、
「仕事なんていうものは、食っていければそれで良い」と
常々話していた


父は、「嫌になったらいつでも辞めれば良い」などとも
言っていた


僕は、「仕事が辛い」なんて口にしたことは一度もない
それなのに、何度かそう言われたのである


研究職は、二十代がエキサイティングで面白かった
三十代になって助手から助教授に昇進したけれど
僕はまったく嬉しくなかった


でも、母は大いに喜んだ


その少しまえに、大学も地方大学から旧帝大に転勤になった
こういった人事は、希望とかではなく、「呼ばれたから行く」
というものだ
昇格も転勤も、僕が希望したわけではない


助手のときはほとんど自由な時間だったのに、助教授になると
会議が多くなり、学会の仕事も増え、共同研究や委員会など
どんどん忙しくなる


好きなことに没頭していられなくなった


給料は年々上がったものの、その分、楽しくない時間ばかりになる


三十代後半には、「なるほど、これが労働というものか」と感じた
帰るときに「ああ、今日の仕事が終わったな」と
初めて思うようにもなった


この仕事をいつまでも続けられるだろうか、と感じたからなの
三十八歳のときに、ためしに小説を書いてみた


それまで一度も書いたことはなかったし、どうして急に
書こうと思ったのか、今になってみると不思議だ


しかし、それを出版社に送って、次の年には僕は小説家に
なっていた
以後十年間、大学に勤めながら小説を出版した


母は、短歌が趣味だったし、文芸にも理解がある
それでも、大学の教官の方が小説家よりは上だ、
と思っていることは明らかで、あまり良い顔をしなかった


大学を辞めるという話をしたのは、母が病気で入院していた
ときだったが、それを打ち明けた数か月後に、彼女は他界した


母が生きている間は、僕はまだ大学に在籍していたのだ


辞めるなんて知らせる必要はなかったかもしれない
顔には出さなかったが、きっとがっかりしたにちがいないから


正直に打ち明けなければ良かったかな、とほんの少し後悔している
もの凄くほんの少しだけれど

        

大学の文学部教授をしている知人も、空きがあって呼ばれて
転勤すると言ってた   愛知⇒高知⇒千葉 英米文学

大学院生の頃も、開館から閉館までずっと図書館にいる人
祖父が外交官だったので、英語が好きで漫画もうまく描いて

専門分野で本が数冊出版されている のを思い出した

職業は人間の価値とは別とも思うし、
仕事は食っていければそれで良いとも思うが、

嫌になったらいつでも辞めれば良いと思えるほど

楽天的でないし、私は食える才能も財産もない

から、今まで働いてきたが


沖縄で仕事は自分にはないはずと言っていたら

海岸でゴミ拾いでもすればいいじゃない と言われ
流れ着くのはたいてい外国のゴミのはずだけど

具体的にどう拾ってどう運んでどう捨てるかまで
ヒマなので考えていることが多いです

今住んでる部屋の掃除でもした方がいいのですが
現実は後回しになっております