本音で語る沖縄史 | 猿の残日録

猿の残日録

いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

仲村さんのブログは読んだことがありますが
ネコを相手に楽しいものです

この著書は、2011年6月に新潮社から発行され
文章力に驚きました

資料を基に、読みやすく、読み甲斐のある本です

本音で語るというのは、
本当のところはこうであろうという仲村さんの考えを
書かれたのではないかと思います

以下、あちこち 抜粋

朝貢とは貢物を明(中国)に納めて服従を誓うことで
中国は威厳をみせるために、朝貢をしてきた国の貢ぎ物とは
比較にならない高価な返礼品を贈るのが慣例だった
これが莫大な富をもたらすので、三山は積極的に明に進貢した

砂鉄を産しえなかった琉球は日本より千年以上も遅れて
沖縄本島に鉄器が伝来する
そして、鉄器が普及するや、「神話と伝説」の時代を脱し
いくたびの大型の領土獲得闘争を経て統一王朝を築きあげ
中央集権体制を築きあげた
王権の強大さはいまや海外交易からあがる莫大な利益を背景に
極致に達している

しかしながら、この時点においても八重山はまだ「神話と伝説」
の時代にいるのである
鉄の伝来でいえば百年以上、歴史の実態的な進行に当てはめれば
二百年近く沖縄本島に遅れをとったことになる



(羽地朝秀の)、財政改革はめざましい成果をあげていた

とりわけ、農業政策は見事な手腕を発揮している
農村荒廃の原因とされた役人の不正の取り締まりを強化し
強制労働を監視するとともに、大胆な土地改革に乗り出した
農地はそれまで共有制であったが、各人が新たに開墾した
耕地は私有と売買を許したのである

いうまでもなく、農民の開墾意欲を高めるための施策である
これが功を奏して荒無の地に開拓意欲が興り、士族までが
開墾に乗り出して耕地面積が広がり、生産高が飛躍的に
高まった

さらに画期的なことには、農地に稲以外の換金作物が栽培
された点である
当時、染料や薬用に使われたウコンや、稀少品として珍重された
砂糖の原料、サトウキビがそれである

これらは王府が買い上げて専売制となり、大阪や堺で高額で
売却されてそれまでにない収益を生み出した

ウコンやサトウキビは現在も沖縄の主力農産物であるが
皮肉な言い方をすれば、薩摩の侵攻がこうした換金作物の
積極的導入を促したともいえる


この他にも、蔡温橋(さいおんばし)で、私は名前を知った
蔡温(さいおん)の話や、
リザンシーパークホテル谷茶ベイの名前の由来の
謝名利山(じゃなりざん)の話
西武門(ニシンジョウ)は、北門(ニシジョー)の意味
など
薩摩藩の侵攻、弓矢と鉄砲の戦いの差など、初めて知る琉球です



人頭税廃止運動を進めたヤマト人 新潟県出身の中村十作
(1867~1943)

人頭税は、薩摩によっておしつけられた年貢を

宮古・八重山の島民だけに転嫁するために

琉球政府がつくりだした税制度

15~50歳の男女すべて

(身障者や名子と呼ばれる士族の隷属民を含む)

に重税を物納のみで課したため、
人々は税を納めるだけの「納税奴隷」の境遇におとされた

課税地域はマラリアが猖獗する有病地帯も含まれていた
ために命を落とす者も多く、人口が減って

明治の世になっても廃村になった土地も少なくない

八重山では1771(明和8)年の大津波による災害で
人口の3分の1が減って2万人になったが、

その後も減り続け、約100年後の1872(明治5)年

になっても1万2千人程度であったとされる

1893(明治26)年に、

人頭税下の八重山を踏査した笹森儀助の報告に

ついても紹介したが、笹森はそのとき

マラリアの巣窟であった西表島について、

廃村が予想される村を8か所あげているが、

事実、そのうちの7村が人口の減少で村が消滅している

もっとも、たとえ生き残ったとしても

税が免除される50歳をこえると重労働が原因で

道を歩くにも杖が必要になるほど足腰が弱り
60歳まで生きることはまれであったというから、

文字通り
島は生きるも死ぬも地獄という劣悪な状況にあった



ともかくも、宮古島における人頭税廃止運動は

「島外者」と「県外者」というよそ者によって

イデオロギーや当時の新思想の背景を待たずして

行われたことに、最大の特徴があるといっていい

とりわけ仲村十作については、

激情がおさえられているぶん閑寂で、

余人にはつかみどころがないほど器量が渺々としている
まことに傑物というほかない

十作はその後、真珠の事業を再開し、

50歳で結婚して京都に移り住んでいる
人頭税の廃止運動に関与したことは、

妻や親類にも話さなかった
谷川健一によれば、

妻が運動のことを知ったのは十作の晩年で
沖縄から送付されてきた彼に関する記事が

掲載されていた雑誌がきっかけだったという

のちに十作の関係資料を保管することになった

甥にあたる中村敏雄氏にいたっては、

十作の死後、彼の妻から初めて聞き及んで知ったとされる

寡黙を絵に描いたような、

いかにも中村十作らしい明治の気骨を
感じさせる逸話といえるではないか


1892(明治25)年、中村十作26歳、城間正安33歳

日清戦争最中の1895年、

帝国議会で建議書が取り上げられ
1903(明治36)年になって、ようやく人頭税は廃止された

ちなみに人頭税が課せられた1637年は、

日本史でいえば
3代将軍徳川家光の治世にあたる

それから実に266年後の出来事であった
まことに快挙というほかない



あちこち抜粋ですが、1958年生まれ

大阪市生まれの沖縄人2世 

96年那覇に移住 の著者が、ヤマト人を
ほめると何となく、自責の気持ちが和らぐ気がします


ちなみに筆者の「仲村」という姓はもともと 

「仲村渠」(なかんだかり) であったが、

昭和初期に流行したこの運動(改姓運動)

によって改姓されている

他にも例をあげると 

「平安山」(へんざん) は「平山」に
「安慶名」(あげな) は「安田」に、
「島袋」(しまぶくろ) は「島」にといった具合である

また、読みも「玉城」姓は、

「たまぐすく」 が、「たまき」「たましろ」に
「大城」姓は「うふぐしく」「うふぐすく」 が
「おおしろ」と読み替えられた

以上