宿題のこと | 猿の残日録

猿の残日録

いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

学生の頃を思い出して、宿題のことを書きます

小学校入学前

 親父は何を思ったか、算数ドリル、他色々、
 まだ小学校入学前の私にやれ とあせる

 教科書に準拠したドリルなので、その教科書を勉強してると簡単なはず

 時計の絵で、いま何時ですかはてなマーク

 お札とコインの絵で、いくらですかはてなマーク

 どちらも、まったくわからない汗汗

 柱時計はあったが、時間の見方を教えてもらっていなかった

 教えてと頼んだが、教え方がわからないのか、悪いのか、
 かなり後、数年後になるまで時間の見方はわからなかった

 お金の数え方は、子供に教えたくないという親父の意見で
 中学になる頃まで知らなかった

 なぜ知らずにすむかと言うと、お金をまったく使わないで生活してたから

 スーパーが隣にあって、そこはおじいさんの家、親父の実家

 それで、算数ドリルとか色々は、まったく使わないで終わった(*^.^*)

小学校3・4年まで

 夏休みの宿題は記憶にあり、工作は出さなかった
 一度だけ、食品の包装容器の舟型の木箱を手作りとそのまま出したことがある

 読書感想文とか、くだらないと思う宿題はしなかった
 なぜかというと、本を読まなかったから
 それと怒られなかった 男はみんな宿題なんてしなかった
 本を学校の図書館で借りて読むのは、女子だけだった
 ずっと後、中学校になって、ヨーロッパの怪奇小説とか学校から借りて
 楽しく読んでたら、親父が、読むな とビックリマーク

 絵日記はホメラレタ記憶があるから、1年の頃は書いたはずだが
 その後は、宿題で出なかったはず

 算数の宿題
 
  たぶん、あったはずだが、10個とか同じような問題ばっかりで
  これならできると思って、したことが無かった

  先生が順番に答えさせるから、当たる前後の数問を直前にといて
  答えていたはず

  まじめに宿題やってくる生徒は2割もいなかったはず
  答えがちがってる生徒が多かったから

  割り算とか分数とか、そのあたりで
  ある日、わからないことに気づいた

  母親に聞いたら、教えられるけど、教え方もあるだろうからと
  親父に

  親父は、先生に聞きに行くのがいいと、夜だったのに
  車で10キロほど離れた先生の自宅へ行って
  懇切丁寧に教えてもらった
  この時の問題は、10:8=5:〇 の 〇を答える
  内側同士(8x5)と外側同士(10x〇)を合わせればいい
  というのは今も覚えている 

  母親の、この子は大丈夫だろうか という心配が今も忘れられない

 理科の宿題

  テーマを自分で決めて、自由研究という宿題があったが
  一度もしたことがなかった
  なぜ、思い出したかというと、弟が親父に連れられて
  川底の研究とかいうのを夏休みの研究にしたら
  県で表彰されたから

  自分はしなかったなガーン

小学校5・6年生

 教師でお坊さんだった先生が急死したので、よく憶えている

  理科とかまったく興味のない授業を受けた後、ノートを
  次の日に先生に見せるのが宿題でした

  予習・復習 どっちでも良かったみたいで、教科書の内容を
  さらに詳しくした参考書を持っていたので、それを毎回
  丸写しして行ったら、

  参考書なんて持ってる子がいなかったので、(田舎なの)
  「優」とか「秀」とかスタンプを押してくれて

  優と秀はどちらがいいの? とか聞いてた
  この頃も、宿題を出す生徒は1割か2割だった
  みんな、農家の子で、勉強部屋すら無い子ばっかりだった

  親父は衣料品を売っていて、友達の家を含めて農家に注文取りに
  定期的に回っていたので、

  昨日、うちにお父さんが来たよ とか言われてた

  近所の女子が、皆で空き家を借りて勉強しようと誘ってくれた
  親父は、ダメ ということで、私は終わった

中学校

 1年生の夏頃から、順位がわかる試験をするようになった
 メンバーは小学校と同じで、学年90人しかいない

 結果は、女子がトップ10のうちの7人か8人
 わたしは、5番目だった 男は私の後ろに1人?いただけ

 親父がまた張り切って、すぐ目の前の高校の先生の家に
 勉強を教えてもらいに行け と ダウン

 英語ラジオの時間だから家で聞きたくて、行きたくなくて、いやいや行ったけど
 3年になる頃まで、ずい分通って、平日毎日1時間半かな
 質問することは無く、質問しても、ちょっと難しい問題だったからか
 理科系の先生にはわからなかった(゚_゚i)

 なぜ通ったか というと、親父の命令もあるが、小学校の時
 皆で一緒に勉強しようと誘ってくれた女子が後からこの塾に来るように
 なったからか それはないかプンプン

 2年生からは、まじめに勉強したかな
  宿題は、まったく無かった
  した記憶がない

 3年になったら、学校行くのが面倒になっちゃって
 許可されてない自転車通学したら、親父が 毎朝起こしてやるからやめとけ と

高校生

 入学時の成績は、学年480人中、4分の1くらいと良かったみたい
 6月、最初の試験の前
 横断歩道、青信号で渡りはじめたら
 赤になった信号で突っ込んだバスにぶつけられて
 (当時は歩道と車道の信号の切り替わりの時間的な間隔に問題があった)
 1週間入院の後、自宅静養1ヶ月

 なんとかなったけど、同級生は背中の湿布薬の臭いで閉口し、迷惑をかけた

 勉強しようという気持ちは、この頃、消えて、その後はしなかった

 英数専門学校と呼ばれた高校でした

 1年の3学期から、2年の教科書を使う
 3年になったら、もう3年の授業は終わってるわけ

 3年生の1年間は何をするかというと、問題集ばっかり
 家で解いて、授業が始まる前の休み時間に黒板に答えを順番に
 書かされて、何かそんなことしてた高校だった

 わたしは、学年の真ん中あたりまで落ちていた
 宿題も自分の当たる分しかしない

 通学で片道2時間近くかかる

 同じ状況で従兄弟たちは、クラブ活動をし、勉強もしてたから
 わたしは、ただのなまけものだったはず

 学年で480人ほどいて、最下位の人が慶応のどこだったか
 現役で受かった  科目が少なくて簡単だから受けるとか
 お金持ちの家でちょっと腰も悪かったから

 静養中、ノートを貸してくれた子を好きになったが、かわいい子だったので
 イケメンと付き合っていて、私は相手にもされなかったハートブレイク

 今、そのかわいかった子は、津田塾をへて、自宅で英語を教えている
 その頃から、塾に通っていたのか、英語の発音が外人みたいで グーキスマーク

 今は津軽三味線の師範もしてるらしく公演してるから、見に行きたいと思う

なんで、宿題の話がこういう方向に向かうのかわかりませんが・・・