忘却の靴屋 | 非日常的日常ブログ

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日々過ごしていく中であった出来事や、なかった出来事、夢で見た出来事を淡々と綴ったり、綴らなかったりしていきます。

夕食の材料を買うために近所のスーパーマーケットへ。
買い物を終え、レジを済ませて出口に向かいました。

外に出ると小雨が降っています。。
雨の予報ではなかったので傘を持ってきていません。
「仕方ない、濡れるのは覚悟しよう」

と歩き出した時、足元に違和感が。
その時、靴を履いてないことに気がつきました。
黒い靴下だけが濡れた床に触れています。

家を出た時の記憶はなく、靴を履かずにここまで来たという事実が信じられませんでした。
しかしいつまでも考えていても仕方がありません。
家までの遠い道のりは遠い。
濡れた道を靴下で歩くのは辛すぎる。
反対側の出口近くに靴売り場があったことを思い出し、急いで店内に戻りました。

靴売り場で安価なスニーカーを購入し、店員さんに事情を説明しました。
すると、彼女は「よくあることですよ」と驚くほど平静に言いました。
私は安堵したと同時に、奇妙な感も拭えませんでした。
「よくあること」って、どういうこと?
一体、どんな人が、どんな理由で、靴を履かずにスーパーに来るんだろう?

新しいスニーカーを履き、駅へ向かう道中、頭の中は疑問でいっぱいでした。
なぜ靴を履かずに家を出たのか?
なぜ気づかなかったのか?
あの店員さんの言葉は何を意味しているのか?
そして、家に帰ったら玄関先にいつもの革靴が置いてあるのだろうか?…

自宅に到着し、玄関のドアを開けました。
いつも置いてあるはずの革靴が見当たらない。
代わりに、濡れた足跡が廊下へと続いていました。
「誰か…入ったのか?」と心配になりながら、恐る恐るその足跡を追って居間へ向かいました。

テーブルの上には、見覚えのあるメモ帳が開かれていました。
そこにはこう書かれています。
『靴を忘れた。スーパーで買う。雨が降ってきた。』
自分で書いた記憶は全くありませんが、間違いなく自分の筆跡でした。

混乱したまま眠りについた私は、奇妙な夢を見ました。
靴を履いていない人々が行き交う街の中で、誰もがそれを当然のように受け入れています。
そして「靴なんて必要ない」と屈託なく笑う店員の顔が印象的でした。

目覚めたのは午前5時37分。
薄明るい部屋の中、私は飛び起きてベッドから出ました。
玄関に急いで行くと、床に昨日買ったはずのスニーカーが置いてありました。
しかし、よく見ると左右で微妙に形が違っているのです。
試しに履いてみると、右足は少しきつく、左足は少し大きい。
明らかに私が買ったものとは違いました。
「あれ?昨日買ったのは…?」
頭の中は混乱しています。昨日の出来事は夢だったのでしょうか?

朝食もろくに喉を通らず、私はスーパーマーケットへ向いました。
昨日、あの奇妙な言葉を告げた店員さんに会いたかったのです。

開店直後の静かな店内。
昨日の靴売り場に行くと、あの店員さんがいました。
私を見るなり、彼女は静かに微笑み、そしてこう言いました。
「やはりお戻りになりましたね」と。

「あの…昨日のスニーカーですが…」
私が口を開くと、彼女は穏やかに言いました。
「皆さん、最初は混乱されます。でも大丈夫、徐々に理解できるようになります」。

「何を理解するんですか?」
私は更に混乱します。
すると、彼女は
「あなたが靴を忘れてきたのではなく、靴そのものを忘れていることを」と答えました。

その言葉の意味が分からず首を傾げていると、彼女は店の奥へ案内してくれました。 従業員専用の扉を開けると、そこには広大な空間が広がっていました。
無数の靴が棚に並び、何人もの人が自分の足に合う靴を探しているのです。
皆、靴下姿でした。



「ここは『忘却品回収所』です。人々が忘れてしまったものを保管している場所です。
あなたは昨日、自分が靴というものの存在を忘れていることに気づいたんです。それはとても珍しいことですよ」

「でも、家には革靴が…」
と私が言うと、彼女は
「それはあなたの記憶の中だけです。あなたは、この一週間、靴なしで生活していました。周りの人も同様です。街を見渡してごらんなさい」

窓の外を見ると通りを行き交う人々は皆、靴を履いていませんでした。
スーツ姿のビジネスマンも、制服の学生も、皆靴下や素足です。
そして、誰もそれを不思議に思っていないようです

「なぜ私だけ…」
と混乱したまま問いかけると、彼女は
「時どき忘却の網から抜け出す人がいるのですよ。あなたはその一人。でも心配はいりません。明日には元通りになります」
と教えてくれました。

その夜、私はメモに『靴を履くことを忘れないで』と大きく書き、枕元に置きました。

翌朝目覚めると、そのメモは消えていました。
玄関には一足の革靴が並んでいます。
しかし、やはりどこか違和感が…。
右足だけが微妙に色あせているような…。

出かける途中、とある靴屋の前で足を止めた私は、ショーウィンドウに並ぶ靴を眺めながら考えました。
皆が忘れているものが、まだ他にあるのではないかと。

その時、ふと右足の裏に異物感を感じて靴を脱いでみると、そこには

『次は傘です』

と書かれた小さな紙切れが。


空を見上げると、雲一つない晴天でした。