大江戸物語#江戸の刑罰 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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江戸の刑罰

 

死罪、追放、身体刑…

身分や性別によっても違いがあった江戸時代のさまざまな刑罰。

 

みなさんは、江戸時代の刑罰というと、どんな印象を持ちますか?

普段、学校の歴史の授業ではそれほど扱われることもないため、

イメージできない、という方も多いのではないでしょうか。

江戸時代の刑罰は、身分によって違いがありました。

そこで今回は、江戸時代にあった様々な刑罰をご紹介します!

 

江戸時代の刑罰とは?

 

江戸時代の刑罰は、その種類によって大きく3つに分けられました。

「死罪」、「追放刑」、そして「身体刑」です。

1747年(寛保2年)に8代将軍徳川吉宗によって「公事方御定書」が制定され、

犯罪に対する刑罰の目安が確立されました。

 

 しかし、『公事方御定書』を持っていたのは町奉行・勘定奉行・寺社奉行の奉行所のみで、

庶民はその内容を知らなかったといいます。

 

3つの刑罰の種類

江戸時代の刑罰のなかで、

もっとも重い刑は「死刑」でした。

死刑と一言でいっても、切腹は武士だけに許された刑でした。

また、女性には「剃髪」という刑もあり、女性は死刑になることはほとんどなかったそうです。

 

 死刑の次に重い刑、今でいう無期懲役にあたるものが、

「追放刑」でした。恩赦により赦免されることもありました。

基準は、武士が30年、庶民が5年とされていました。

居住地やある一定の地域から追い出されるのが、「追放」という刑罰で、

奄美大島や伊豆七島などに追いやられる遠島がありました。

「身体刑」は、身体を傷つける刑罰で、主刑としてだけではなく、

付加刑として処されることもありました。

例としては入墨、敲(たたき)などで、敲きは庶民階級の成人男性にのみ科されました。

主に、盗犯に施される罰。腕に幅三分(約9mm)ほど二筋に墨を入れる。

入墨刑は、古くから行われたが、

成文化されたのは8代・吉宗の治世である享保5年(1720)2月17日で、

耳や鼻をそぐ刑罰を科せられた者よりも罪の軽い者に行われた。

入墨がどこに彫られているか、どのような形であるかで、

どこで罪を犯したかがわかるようになっていた。

 

「8代将軍徳川吉宗のとき編纂された「公事方御定書」

(1742年成立)から明治刑法(1882年施行)まで、

江戸時代を中心に、

わが国の刑罰と牢獄の歴史を振り返ります」というわけでなんですが、

いろいろな罰の図解も興味深く。海老責めの図。

 

【永代橋から出航する流人船(徳川刑罰図譜)】

 

この当時、京、大坂など西日本の流刑囚は隠岐、壱岐に送られたが、

江戸、東日本ではでは伊豆諸島に送られている。
 当初は大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の七島が、

すべて流罪地だったが、大島は本土に近くて島抜げする者が相次いだり、

その他の小さな島では生活環境が悪く、

流人を受け入れる余裕がないなどの理由により、

大島など四島が除かれ、後には八丈、三宅、新島の三島が流刑地となった。

 

 

 

死刑の種類はなんと6つ!

 江戸時代、庶民の死刑には6種類あったといわれています。

刑の軽いものから順番に、

下手人(げしゅにん)、死罪(しざい)、獄門(ごくもん)、磔(はりつけ)、

鋸挽(のこぎりびき)、火罪(かざい)、です。

 

下手人(げしゅにん)とは

死刑の中で最も軽い刑である下手人。牢の中で首を斬られます。

首を斬られるという点では次にご紹介する死罪と同じですが、

下手人の場合は、身内がいれば遺体を引き取って埋葬することができました。

 

死罪(しざい)とは

下手人の次に軽い刑とされる死罪。言葉が似ていて区別が難しいですが、

命を絶つ刑を「死刑」と呼び、「死罪」は「死刑」の一つでした。

下手人と同じく、首を斬る刑ですが、

そのあと遺体を使って「様斬(ためしぎり)」をされたのが死罪でした。

刀の斬れ具合を試すために死体を斬る様斬に使われてしまうとは、

なんとも悲しく思えてしまいますね。

 

獄門(ごくもん)とは

死罪より重い獄門。獄門とは、首を斬ったあと、その首を3日間さらされるというものです。

さらし首、という言葉がよりわかりやすいかもしれません。

 

磔(はりつけ)とは

磔は獄門よりも重い刑で、刑場で十字架をした罪木に縛り付けられ、

槍によって命を絶たれます。

獄門は斬首のあと見せしめとされましたが、

磔は生きているうちから人々の見せしめとされました。

また、死後3日間もその姿はさらされました。

 

 

鋸挽(のこぎりびき)とは

磔でも充分残酷な刑ですが、鋸挽はさらに重いものです。

鋸という言葉が使われていますが、江戸時代では実際に鋸で殺すことはなかったようです。

市中引き廻しのあと、広場の土の中に埋められ、

首から上だけ出した状態で3日間晒されました。

徳川家康を大激怒させ鋸挽に処された「大賀弥四郎」

 

火罪(かざい)とは

死刑のなかでも最も重い刑罰が、火罪でした。

江戸時代は火事が多く、一度起きると人々の生活の場所や財産を奪ってしまうことから、

放火犯にはこの刑が処されました。柱に縛り付けられたのち、火あぶりにされました。

 

 

不義密通は晒しのあと死罪

 

 

 いかがでしたか?

現代から考えると、なかなか厳しく、

こちらも気分が悪くなってしまいそうなものばかりですが、

死罪や磔などの公開処刑は一般の人々も見ることができたため、

大勢の見物人がその様子を見届けていたといいます。

学校の歴史ではなかなか知ることのできない、

江戸時代の死刑についてご紹介しました。

 

市中引廻しの上、清十郎は死罪、お夏は狂乱