歴史の零れ話#松尾芭蕉(はせを) | 春夏秋冬✦浪漫百景

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松尾芭蕉(はせを)

 

 松尾芭蕉は江戸時代前半の俳諧師です。

寛永21年(1644年)に、伊賀の国すなわち現在の三重県伊賀市で誕生したとされます。

松尾家は農民でしたが、名字帯刀を許されていました。

というのは伊賀の国の、平氏の末流を名乗る、旧来からの土豪一族だったそうです。

松尾芭蕉という名前だけが本名のように思われるほど有名ですが、

松尾芭蕉以外に沢山の名前があるのでご紹介します。

まず、幼名を金作、名は忠右衛門宗房でした。

 

 俳号として、初期には実名である宗房が、次に中国風の桃青が選ばれていました。

そのような経緯があって、ようやく芭蕉(はせを)という俳号に落ち着いたとされています。

京都の貞門派北村季吟の門下として、

長く俳句を詠み、西山宗因などの談林派俳諧による影響を強く受けているといわれていました。

延宝6年(1678年)に、桃青という俳号で、

松尾忠右衛門宗房はついに職業的な俳諧師である宗匠となります。

 

 

 俳諧という俳句の元になったものを発展させて、芸術として俳句を完成しました。

松尾芭蕉が有名なのは俳句のみでなく、紀行文の「奥の細道」などもあります。

全国をいろいろ旅して詠んだ歌は、いろいろなところの石碑などにも刻まれています。

俳句は、俳諧という江戸時代に栄えていたものが発展したものです。

俳句という言葉は、実際には正岡子規によって明治時代になってから広まりました。

 

 天和2年(1682年)12月には、

天和の大火すなわち八百屋お七の付け火による火事のため、

なんと芭蕉庵を失ってしまう惨禍に遭い、せっかく築いた地道な生活を思い、

涙にくれる想いをしたといいます。

 

 松尾芭蕉は、弟子となった河合曾良を伴い、旅の日記と句作に励んだといいます。

亡くなったのは、元禄7年10月12日(1694年11月28日)のことです。

直前の元禄7年10月12日に仕上げられたという辞世の句は大変有名で、

かつ生涯が偲ばれる名句となっています。

  ”旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る”
  意味としては、私は死の床に旅先で伏していても、

見知らぬ枯野を夢の中で駆け回っているということです。

松尾芭蕉の俳句を愛し旅を愛した生き様を詠んだものです。

 

 「奥の細道」は、松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に江戸から弟子の河合曾良を連れて、

奥州、北陸道を旅したときの文章です。

奥州、北陸道を約150日間で旅して、江戸に2年後に戻りました。

多くの俳句が「奥の細道」には詠み込まれており、

松尾芭蕉の作品の中で最も有名なものです。

 

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

この俳句は、岩手県の平泉で源義経が自害されたとされるところで読んだものです。

意味としては、この地は現在夏草が生い茂るのみであるが、

英雄たちが昔夢に破れた跡であるなということです。

 

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

この俳句は、山形県新庄で地元の人から教えてもらった立石寺を訪問したときに詠んだものです。

意味としては、本堂に夕暮れ時に訪問して、周囲が静まり返る中、

岩に染み入るように蝉の声のみが聞こえてくるようだということです。

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

この俳句の意味は、蛙が古い池に飛び込む音が聞こえてくる、

なんと静かなのだろうということで、季語は蛙です。

単純な「古池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた」という情景ですが、

しみじみとした味わいを日常的な物事に見出す松尾芭蕉ならではの名句です。

蛙というとその当時は鳴く姿を詠むときが多くありましたが、

水の跳ねる音に着目したのは新しい感覚です。

 

「山路きて 何やらゆかし すみれ草」

この俳句の意味は、山路を辿ってきて、ひっそりと道端に咲くすみれ花をふと目にして、

心がなんとなく惹かれることよということで、季語はすみれ草です。

すみれの花は可憐なものですが、健気に慎ましく咲く様子に励まされて、

旅の険しい疲れも癒されたでしょう。

春の風情や山道の木々の間から差し込む光の温かさが感じられます。

 

「草臥れて 宿借るころや 藤の花」

この俳句の意味は、旅に疲れて、宿がそろそろ必要になってきた。

ふと見れば、見事に藤の花が咲いているということで、季語は藤の花です。

「草臥れて」の意味は「くたびれて」ということです。

晩春の夕暮れに、ふと空を疲れた身体で見ると、重く藤の淡い紫の花が咲き垂れていました。

そこはかとない春愁と旅愁を、藤のけだるげな風情に誘います。

 

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」

この俳句の意味は、見渡すと桜が咲き誇って雲と見間違えるくらいである。

聞こえてくるのは上野の寛永寺の鐘の音だろうか、

あるいは浅草の浅草寺だろうかということで、季語は花の雲です。

鐘は、「時を告げる鐘の音」のことで、江戸時代の暮らしには必要なものでした。

上野と浅草は、

「芭蕉庵」という松尾芭蕉がその当時に住んでいたところからは同じような距離であったようで、

鐘の音がいずれのお寺からも聞こえていたことでしょう。

俳句に没頭しているある春の日、

ふと耳にした鐘の音で現実の世界に一気に引き戻される松尾芭蕉の様子が詠み取れます。

 

「五月雨を 集めてはやし 最上川」

この俳句の意味は、最上川の急流は水かさが梅雨の雨を集めて多くなっているよということで、

季語は五月雨です。

「五月雨を 集めて涼し 最上川」と初めの句会では詠んでおり、

穏やかに涼風を運びながら流れる様子を表していました。

 

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

この俳句の意味は、日光の青葉若葉に降り注ぐ日の光は、

ああ、尊くありがたいことよということで、季語は青葉若葉です。

日照東照宮を松尾芭蕉が訪れたときに詠んだ俳句で、

地名の日光と太陽の光ということが「日の光」にはかけられています。

初夏の美しい新緑とともに、

隅々まで徳川の威光が降り注ぐ日の光のように届いていることを表しています。

 

 

奥の細道

松尾芭蕉は関西文化圏の伊賀上野というところで育ったため、

みちのくは未知のはるか彼方の国でした。

江戸時代は人生50年といわれており、旅に40代半ばで出るのは、

亡くなるまでに自分の夢を叶えたいということからでした。

 自分の夢というのは、

松尾芭蕉が敬う連歌師や歌人が詠んだ歌枕(名所)を訪問することでした。

万葉時代からみちのくは歌枕の宝庫であり、

自分の目で名歌に出てくる歌枕を確認したいという衝動にかられました。

松尾芭蕉は、みちのくを旅した後に九州の旅を考えましたが、大坂で51歳で亡くなりました。

 

 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という有名な辞世の句の通り、

松尾芭蕉は亡くなっても旅を愛して、俳諧を追求しているのでしょう。

 

因みに、

「奥の細道」の旅はどの程度の費用がかかったか?

詳しい「奥の細道」の旅の費用についての記録は残っていませんが、

「曾良の旅日記」の内容から推定すれば、全ての旅の費用は約100万円超でしょう。

松尾芭蕉の弟子の河合曾良が旅先の有力者に前もって連絡しておいたため、

各地で松尾芭蕉は歓待されて、費用が安くなったようです。

「奥の細道」を読めば、貧乏な旅というイメージがありますが、

実際には余裕がある旅であったようです。

 

松尾芭蕉はグルメであった?

松尾芭蕉の食事についてはほとんど「奥の細道」に書かれていませんが、

「曾良の旅日記」にはいくつも書かれています。

「曾良の旅日記」には、酒、そば、うどんの順番に多く書かれており、

松尾芭蕉の好みと同じであると考えられます。

各地の有力者が準備してくれた食事は、いずれもその当時は貴重品であったものばかりです。

そのため、「奥の細道」はグルメ旅といえるでしょう。

 

 最後に、

TBSでやっているバラエティ番組で、タレントらが俳句を詠むコーナー。

各自、斬新な句を考えて、

敢えて難しい言い回しや季語を使っていますが、

何がいいのか分かりません(笑) 自己満足の限り、味わいも、粋も、情緒も、感慨も何もない。

でも駄作は駄作ですよ。

 

 芭蕉を知れば、俳句とは、正に5・7・5による詠みが王道であると再認識しますね。