歴史の零れ話...小町伝説 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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歌と画像で綴る心ときめく東京千夜一夜物語

小町伝説

世界三大美女と言えば、古代エジプトの女王・クレオパトラに、

中国唐代の皇妃・楊貴妃。

そして、日本代表として名高いのが……小野小町ですね!

美貌の歌人として知られている小町の生涯は謎に包まれていて、

わからないことが多いと言います。

おかげで人々のイマジネーションが搔き立てられたのか、

さまざまな伝説が残っています。

ミステリアスな美女の足跡をたどってみました。

小野小町(生没年未詳、9世紀ごろ)

小町の出自や身分ははっきりとしませんが、

仁明天皇(にんみょうてんのう)に仕えていたと伝えられています。

宮中ではその美しさに多くの男から好意を持たれますが、

誰にもなびかなかったのだとか。

 

そんな小町のプライドの高さから生まれた伝説があります。

深草少将(ふかくさのしょうしょう)は恋い焦がれて求愛しますが、

「百夜通い続けたら契りを結ぶ」と小町から告げられます。

毎晩徒歩で通い続けますが、九十九夜まで通ったところで、

大雪のために深草少将は凍死してしまいます。

この深草少将にはモデルがいたようです。

「百夜通い(ももよがよい)」の伝説をもとにした謡曲に

『通小町(かよいこまち)』や『卒塔婆小町(そとばこまち)』があり、

度々上演されています。

これらは小町物と呼ばれ、人気の高い作品です。

 

京都・補陀洛寺で知る哀れな最期

京都市に小町寺と呼ばれる寺があります。

正式名は補陀洛寺(ふだらくじ)で、

終焉(しゅうえん)の地として知られています。

 

宮廷で華やかな生活を送っていた小町は、

仕えていた天皇が崩御すると宮廷を去り、諸国放浪の旅に出ます。

そして80歳でこの寺にたどり着き、亡くなったと伝えられています。

補陀洛寺には小町の晩年の像が安置されていますが、

絶世の美女の面影はなく、あばら骨が浮き出た老婆の姿。

年月を経る残酷さを物語っています。

「卒塔婆の月」(月岡芳年『月百姿』)年老いた小野小町

 

小町の亡骸はこの地で野ざらしにされました。

しゃれこうべの目の穴からススキが生えていたため、

風が吹くたびに「ああ、痛い」と叫んだと言います。

寺を訪れた僧が手厚く葬って、やっと成仏したのだとか。

才能溢れる美女の哀れな最期を思うと、

センチメンタルな気分になりますね。

歌碑(京都随心院)「花の色は」の歌が刻まれている。

 

墓所

小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。

このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。

平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、

墓自体がない可能性も示唆される。

 

「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」。

これは、小倉百人一首に収録された小町の歌です。

歌の意味は、

「いつの間にか、花の色もすっかりと色あせてしまいました。

降る長雨をぼんやりと眺めているうちに」。

花にたとえて、私の美しさも色あせてしまったと嘆いているのですが、

美人でなければ作れない歌ですね。

やはり絶世の美女だったのでしょう。