心の奥を知って下さい❺ | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

 



 今回はなんであんなに、《木挽町のあだ討ち》についてくどぐどと話したのかを、お約束通りお伝えするところから始めたいと思います。
その為には、幼稚園時代を少し飛ばさなくてはなりません。
私は、相変わらず父のいる横浜と母の暮らす東京を行ったり来たりしてましたが
前回申し上げた通り誰が考えたことなのか、劇団に入ることになりました。
《劇団ひまわり》という処です。
面接もあり、現役の映画監督や売出し中の女優が審査員として並んでいました。
ちなみに女優さんは成り立ての《岩下志麻》さんだったと思います。
私は、審査には合格することが出来たのですが劇団のレッスンに通うのが困難だった為に、諦めました。

横浜の父が自分の兄、私にしてみれば叔父にあたる人ですが、その叔父の住まいに居候していた頃、小学校に進学する時期になっていました。
しかし父は何の行動もしなかった。
その年の入学が決まっている私は小学校に上がる事もなく叔父の家に父と暮らしておりました。
こんなふうに言ってしまうと父がどうしようもない駄目人間になってしまいますね。
大好きな父の名誉にも関わる事なので、父の事は別の機会に話させて貰います。

私の事を心配してくれた母が動きます。
横浜に乗り込んで来て父を説得すると、私を連れて帰ります。
おかけで私は入学式には間に合いませんでしたが小学校に入ることが出来たんです。
何年生になった頃でしょうか?私はまた劇団に入ります。
《劇団あすなろ》という処に入団しました。
まだ新橋にNHKが有った頃の事です。
《劇団あすなろ》は、その
NHKが在った新橋に在りました。
たしか《ミス東京》とか言うキャバレーの隣りに劇団の事務所とレッスン場は在りました。
学校が終わると新橋の劇団へ向かいます。
バレエのレッスン、演技の練習、発声の練習とスケジュールはびっしりでした。
ところが私は2回ほどレッスンに行った後、まったくレッスンに行く事はなくなりました。
次から次へと映画会社の面接へ連れて行かれ、それが一番の仕事となり、それ以外はエキストラとしていろいろな映画に出演しました。
東宝・日活・松竹・大映そして今は無き新東宝。
テレビも面接には行きましたが残念なことに出演したものは有りませんでした。

私は子供ながらに出演した作品や観た映画などにこれはスタッフも演者さん達も楽しく創ったんだろうなぁと思えるものに出くわす事がたまに有りました。
でもそれは稀なことで、あまりそういう作品には出会えませんでした。
そのせいか、私は映画を創る人達には感心を持ちましたが演者になりたいと思った事は、まったく有りませんでした。
もし私の子供の時代に、あの《木挽町のあだ討ち》が
映画作品として世に出ていれば、私はきっとどんな苦労をしても、よそ見をせずに、映画俳優になった筈です。
《木挽町のあだ討ち》の現場は活気に溢れ、演者もスタッフも皆んなが、面白い
映画を作品を創り上げよう
その息吹がセット全部に満ち溢れていたに違いない。
生意気なようだが、私にはその光景が、感じられるし見えるんです。
その息吹を吸い込んだ私は
その後の人生を間違える事なく、真っ直ぐ映画一筋に生きられた、そう思うんです。
次回からは書き残した事を含めて、私の子供の頃をもう少し書き足していきます
余談ですが《木挽町のあだ討ち》11回観ました。