書こうとしている小説は決まりました | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。


私の祖父、髙田福松のことを書いてみようと、前回の投稿で申し上げました。
静岡から横浜へ新しい時代に乗り遅れまいと家族で向かったものの、なかなか上手くはいかなかったようです。

前回の投稿では、天然痘に感染した福吉少年が【大人に成ってから『福松』としましたが、祖父の本名は福吉でした】その後遺症に苦しみ、ついには左の眼球を自らの手で摘出したという辺りで終わりました。

父の兄である私の叔父からこの話を聞いたのは小学六年の時でした。
当時は〜お祖父ちゃんスゲェ〜ということしか頭に浮かびませんでしたが、今になって思うと、貧しさから思うように医者にも行けなかった祖父が、悩んだ末に
出した結論だったのではないかと理解しています。

片目になった福吉少年は瓦職人の道を諦めます。
屋根の上での作業は無理だったからです。

その頃、誰かの紹介で福吉少年は横浜港にある魚河岸で働く事になります。

この魚河岸で祖父は自分の存在感を出しまくった様です。

福吉少年はとにかく周囲の人間達と何かにつけて諍いを起こしたと言われています。

祖父が魚河岸で働き始めて何年かが過ぎた頃、その中に臨時の交番が建ちました。

その理由は、私の祖父が原因でした。
要するに、髙田福吉の度重なる暴行事件の対応に苦慮した横浜の警察が考え出した苦肉の策だったのです。

交番を建てなくてはならない程の暴力事件っていうものが、どれだけのものなのかちょっと想像がつきませんが、普通では無かったのでしょう。

この事も、名を売り出したいためでは無く、屋根屋に挫折した自分に自暴自棄になった挙げ句のように思えるのです。

祖父は魚河岸中で知らない人は居ないほど有名に成っていきました。
祖父の扱いに手を焼いた魚河岸の人達は、ここが現代社会では中々理解しづらいのですが、明治・大正の頃は地域の人達が困るような素行不良の青少年を教育する為に任侠団体に預ける事があったと聞きます。

魚河岸の人達は、横浜で大きな勢力を誇っていた二代目綱島一家に祖父を引き取ってもらうことにしたのです。

綱島一家は、諸国を巡って男を磨いた綱島の小太郎が横浜に戻って起こした博徒の一家でした。
初代、綱島の小太郎、二代目、土屋徳太郎。
この二代目の盃を貰う事になりました。
綱島一家の中で頭角を表して行くのですが、その様子は次回と致します。