書こうとしている小説について | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。




これが私の祖父です。


左の眼が少し変ですが写真の所為ではありません。

左の眼がなかったのです。

今日はその経緯を説明しようかと思います。


まだ時代は明治。


祖父と家族は静岡の富士山がよく見える地域に住んでいました。


当時、日本の国が景気が良かったのか悪かったのかは知りませんが、祖父の家庭はおそろしく貧しかったようです。


祖父の家族の先祖は佐賀鍋島藩の家臣だっということですが、何処かで村上水軍の一党に加わりなんと海賊になっていたことがあるそうなんですが真偽のほどは判りません。


祖父が二歳の頃、今父親は家族に向かって、こう言います。

『もう侍の時代は終わりだ私も侍の立場を捨てる。これからは商人の時代だ!私も横浜に出て商売を始めようと思う』

もう少しじっくりと話し合ったとは思いますが、とにかくこんな感じで佐賀鍋島藩のそして瀬戸内海で海賊もやっていた私の先祖は、横浜を目指しました。

横浜に着いた私の先祖は何らかの目算はあったとは思いますが、中々成功することは出来なかったようです

横浜についた頃の祖父はまだ六歳、名前は福吉といいました。

愛称は『福ちゃん』です。

ですからしばらくはここも『福ちゃん』と呼ぶことにします。

『福ちゃん』は六歳の時から家計を助ける為に蜆(しじみ)売りをします。

兄妹は六人ほどいたそうですが、『福ちゃん』が何番目だったのかは判りません

が六歳の彼が働いていたのですから、きっと他の兄妹も何らかの仕事はしていたと思います。

貧しくても『福ちゃん』の家族は手を取り合って横浜で生きていったんです。

『福ちゃん』が十歳の頃、瓦職人になるため奉公に出ます。

何年かは屋根屋と呼ばれた瓦職人の修行に頑張ったようです。

この頃『福ちゃん』の性格を表すエピソードが残っています。

侍の家に育ったからなのかもしれませんが、当時は履き物といえば下駄ぐらいしか無かったでしょうが『福ちゃん』は下駄にこだわっていたようです。

奉公先から貰う、盆暮れの小遣いを貯めて新しい下駄を買うのが『福ちゃんの』愉しみでした。


ある時のこと。


お盆の休で実家に帰ろうと真新しい下駄を履いて屋根屋を出ようとした時のことでした、奉公人の先輩達に囲まれて、高価な下駄を履いてるのが生意気だと取り上げられそうになります。

先輩達は『福ちゃん』よりも年齢も上なら体格も大きく、とても勝てはしなかったでしょう。

だからといって、せっかく買った下駄を盗られるのが口惜しいと思った『福ちゃん』は真新しい下駄を先輩達の見ている前で玄関の三和土(たたき)に投げつけ割ってしまいました。

その『福ちゃん』の形相に先輩達は何も言えなかったそうです。

中々激しい性格だったんですねぇ。

『福ちゃん』は一人前に成っていきました。


そんな頃のことです。

横浜に天然痘が流行し、大勢の人が命を落としました

『福ちゃん』も天然痘に感染しました。

明治の事、今とは医療も薬も違います。

『福ちゃん』は何日も生死の境を彷徨いました。

ですが、運良く命は助かりました 

ところが、左眼の奥に腫瘍が残って『福ちゃん』を永く苦しめます。

片眼では、方向感覚に影響もあり、屋根に上るのも困難です。

それに眼の奥の腫瘍が耐えられないほど痛むため、どうせ屋根屋の仕事が出来ないのならと、痛みに耐えられなかったのか瓦職人を続けられない事を儚んでやけになったのか判りませんが『福ちゃん』は自分の手で

左の眼球をえぐり出してしまうのです。

これで屋根に上ることは本当に出来なくなりました。


瓦職人の道を諦めてしまった『福ちゃん』が次に選んだ仕事は横浜の魚河岸でした。

ここで『福ちゃん』の人生は大きく変わって行きますが、その話はまた次回と致します。


長い話をありがとうございます。