そろそろ小説の題名を決めなくてはいけないのですが
なかなか思いつきません。
ところで
私は最近、変な習慣が身につきました。
大した話では無いんですが
、Netflixを契約してから何年か経つんですが、最近になってPrimeVideoやそれ以外の日本映画専門チャンネルとかいろいろ観ることが出来る事を知りました
。
私が中学生から高校生の頃日本映画は不況の時代に入っていましたが、一社だけ一人勝ち状態の映画会社がありました。
東映です。
演し物は任侠映画です。
この一週間、高倉健、鶴田浩二、若山富三郎、菅原文太、当時のヤクザ映画のスター達の勇姿を朝から晩まで観続けておりました。
彼等の中に御存命方が一人もいない事が、時は流れたのだなぁと感じます。
なんで古い東映映画を観続けたのかと言えば、どの映画も時代背景が祖父の生きた時代だったからです。
鶴田浩二が歩く街並みが、高倉健が池部良とすれ違う盛場が【当然、オープンセットや作り込まれたセットなんですが】祖父の生きていた時代の風景を思わせてくれるように感じたからです。
セットの通りを歩いている人達の中に祖父が居るような、作り込まれた家屋の中に祖父が座っているような
不思議な心持ちになるんです。
それもこれも、祖父に対しての情報や資料が無さ過ぎるためです。
私に有る資料と言えば、小中学生の頃に、横浜の叔父から聴いた話と、二十歳頃に叔父の経営する横浜土地株式会社の事務所の中で叔父の出社を待ちます。
叔父が自宅を出て事務所に来るのが午前十時。
そこから昼まで、と言っても叔父が空腹を感じた時が昼なので、十二時丁度とは限らない。
で、叔父が叔父の中で空腹を感じると私の出番が来ます。
表通りにある『多味屋』という日本蕎麦屋迄、叔父の昼食を取りに行くんです。
注文するのは必ず《かけそば》それが出来上がるのを
店の中で待ち、大通りを横切り事務所まで、考えてみると私は、昭和四十年代に
まだ携帯電話も誕生してない時代に、Uber eatsみたいなことをやっていたんですね。
話が脱線したようです。
髙田福松の話に戻りましょう。
祖父は何百という子分一番お尻になった訳です。
最初に与えられた仕事は博打場の近くの電柱とゴミ箱の間に隠れるようにして賭場荒らしと警察の手入れを見張る役目を仰せつかりました。
空が明るくなった頃、博打は終わります。
真冬の季節には祖父の着物の肩に雪が積もっていた事もあったそうです。
そんな役目が数ヶ月続きました。
ある日下足番の仕事を任されます。
博打場の入り口は怪しまれることを避けて客が脱いだ履き物をそのままにしておく事が出来ません、だから客が履き物を脱ぐと直ぐに眼につかない場所にしまいます。
その時に履き物札のような物は有りません。
お客さんの顔と履き物の種類を記憶しておいて、帰る時に間違った履き物を渡したりしないよう気をつけるのが、若い衆の大切な仕事のひとつだったようです。
祖父は一生懸命にこの役目に励んだみたいです。
まだ成人にはほど遠い年齢の福吉少年でしたが、機転が効くと言いますか、なかなかと思える若者だったようです。
賭場に集まって来る常連客達は皆、大きな商人も多く繁華街の一等地で手広く商売をしている人も多い、その日どれだけ負けたとしても家に戻れば有り余る程のお金は有る。
お客さんの履き物と顔を記憶することが出来る福吉が
客の顔色を見れば、その日
目の前の客が勝ったのか負けたのかは一目瞭然でした
。
そこで福吉は、今賭場の入口を出ようとしている客に声をかけます。
『○○さん、お疲れ様でした、今日はつかなかったようですね。これお車代にどうぞ』
家に戻ればなんでもない金額でも、人力車夫に今払うお金が無い。
ヤクザの三下【さんした】が渡してくれる小銭に助けられたとお客さんは思う。
気の利く若い衆だなと。
次の賭場の日には、やはりあの若い衆が居る。
前回、世話になった車代をあの若い衆に返さなくては
。
勉強不足で申し訳有りません、人力車がいくらで乗れたのか調べてません。
ついでに『髙田福松』と言っておきながら『福吉』と言ったり、ややこしいですが、オギャアと産まれた時は『福吉』。
後の話になりますが、綱島一家の三代目になる頃『福松』と名乗ったようです。
ですからこの頃は、まだ『福吉』だったのです。
前回、大負けした老舗の旦那さんは、分厚い札入れを懐中から出して『若い衆さんこの間はありがとうよ、
これ少ないけど』そう言って渡されるお金は、車代の何倍もの金額だったようです。
祖父は綱島一家の賭場で気の利く若い衆だと、評判になって行きました。
かと言って、旦那衆にしてみれば自分達の息子より若い祖父のこと、フク、フクと呼び捨てにされていました。
とにかく可愛がられたことは確かです。
任侠映画のように凄まじい争い事は無かったと思いますが、やはり博打場です。
いろいろゴタゴタもあったでしょう。
賭場で持ち上がる問題を、的確に対応して解決していく福吉は一家内の先輩後輩からも慕われるようになって、博打の客達からも快く見られていたようです。
その証拠に『ふく』と呼び捨てにされていたのが『福ちゃん』に変わり、やがて
『福吉さん』となり気がつくと『兄い』と呼ばれるようになっていたのです。
祖父が二十二歳の年に祖父のために命を棄てると誓う若者が二十人もいたそうです。
今日はこの辺で終わりますが、昨日一昨日とブログの閲覧が0なんです。
必ず小説の形に仕上げますので、皆さん!是非とも私の祖父のことを知って下さい。
まだまだ、すっとこどっこいのエピソードが沢山ありますからお楽しみに。