神楽坂に戻って来た尊。
千夏が心配していると思い携帯電話に神楽坂に戻ったと伝えた。
まるで新婚の夫婦みたいだと電話を切ってから笑みが溢れた。
今、自分が幸せなんだと思えるような生き方を尊は知らない。
仁和会などに関わりを持たなければ、自分の人生は全く違っていただろう。
後どれだけ生きられるのか
知る由も無いが、殺し合いの中で血の海に沈むのだけは嫌だと思った。
沢山の人達の人生を踏み躙るようなことをして来た自分が、それが普通だと思う自分が、一旦幸福感の中に身を置いて、その果実の味を知ってしまうと、どうしてもこの場所を失いたく無いと必死にそう思う、正に今の小田尊は、そのものなのかもしれない。
千夏の家に向かう道で、そんなことを考えていた尊だったが彼女の家が有る場所の曲り角へ来た時だった。
誰かに見られている、誰かが自分に殺意の視線を向けていることに、気づいた。
それは、気のせいでも思い込みでも無い、奴等がいる。
はっきりと、それを感じていた。
歩いて来た坂道に目を凝らすが、見る限り知った顔もそれらしい風体の者も居ないが、間違い無く奴等はこちらを見ている。
首筋と腋に汗が滲んでいる。
幸福感を欲することの代償なのか、この恐怖心に近い感覚は過去の自分には無かった。
千夏の家に入ることが良いのだろうか、決断が出来ないでいる。
その時だった、携帯の着信音が鳴り、尊は冷静さを取り戻すことが出来た。
かけて来たのは西田だった。
「西田です。大丈夫ですか、変わったことありませんか」
尊は大丈夫だと応えた。
何も起きてはいない、感じたことを話しても仕方ないこと、それこそ気のせいなのだから。
西田の電話は直ぐに切れた。
もう一度、坂道の雑踏に眼を凝らした時だった。
尊は、右の太腿に衝撃を感じた。
それは熱さを伴い、そして右の下半身の感覚がなくなった。
尊は舗道を這いずり、建物と建物の隙間に身体を入れ、
先ず自分の安全を確保した。
何処からか、狙撃されたようだ、場所が判らない。
銃声は聞こえなかったように思う、遠くから撃っているのか、それとも消音器を装着しているのか、いくら血気盛んな若者だとしても、
消音器などが手に入るのだろうか、とにかく千夏の家には行かないようにしよう。
間違い無く巻き添えにする、
尊の頭は忙しなく回転していた。
神楽坂を行き交う人に驚いた様子はない、と言う事は銃声はしなかったのだ。
消音器を使っているとすれば、若者達の背後に大きな存在が居るのだろう、それでなければ、せいぜい粗悪な拳銃くらいしか手に入れることが出来ないはず。
出血が多い、止血しなくてはいけない。
気のせいか視力が低下しているように感じる。
西田は近くに居るかと携帯を鳴らしてみる。
西田の携帯は直ぐに繋がった。
「西田です、何か有りましたか」
「撃たれた」
携帯の向こうで西田の動揺がわかる。
今いる場所を確認すると西田は電話を切った。
眼が霞んで来る、西田が来る迄、踏ん張らなくてはならない、尊は自分が奮い立たせるように、自らの頬を力一杯に叩いた。
俺は死なない、死にたくない、幸せになるんだと頑なに尊は思っていた。