意識が朦朧とし始めていたのを必死に尊は堪えていた。
薄れていく意識の中で尊は千夏が大丈夫かを考えている、太腿からの出血はまだ止まっていない、尊の生命の終が近づいているのは間違いない。
やっと西田が駆けつけて来た。
「叔父貴!大丈夫ですか、直ぐ病院に連れて行きますから、気をしっかり持って
下さい」
尊は西田の励ましを聞きながら、気絶した。
西田は馴染の医者の処へ急いだ。
千夏の下に尊の状況が伝えられたのは、尊が撃たれてから一時間以上が過ぎていた。
見慣れない番号が携帯の画面に表示され、それだけで
不吉な予感がした千夏だが、
電話の相手が西田だと知り
気分が軽くなったが、西田の用件を聞いた途端に、目の前が真っ白になってしまい、床に腰から崩れ落ちてしまった。
千夏は西田さんには一二回しか会って居ないし、何故あの人は私の番号を知っているのだろう、尊から聞いたのだろうか、それとも、自分で電話が出来ないほど状態が悪いのか、西田さんの言っていた病院に行かなきゃならない。
具合なんか悪くなっている場合じゃない。
意識が遠のきそうな自分に叱咤しながら立ちあがろうと懸命になっていた。
尊とやっと掴んだ夢の時間を失うことは出来ない。
自分を奮い立たせ、千夏は
尊の担ぎ込まれた病院に向かった。
祈ることしか出来ないもどかしさの中で、その祈りで必ず、自分の処に尊を戻すと決意していた。
撃たれた尊を西田が連れて行ったのは普通に病院として患者の治療しているが、訳ありの病人も診るという所だった。
院長の方針というが、この病院で助かった人間は多いと聞く。
尊は、大量の失血をしたが同じように大量の輸血をし、
危険な状況は、回避した。
千夏が病院に到着した時には彼女の予想に反して尊の意識ははっきりしていた。
「尊さん」
声をかけては見たが、後の言葉が続かない、涙が溢れて尊の顔が見えない。
尊も意識は戻ったとはいえ、
体調万全という訳ではなかった。
病室で尊を担当している看護師から、このくらいにしておきましょうと千夏は言われ、病室の外に出た。
明日は、もっと元気になる
筈だから安心して下さい。
とも言ってくれて、それに励まされ千夏は廊下のソファに腰を下ろした。
尊の様態がわかって安心したのか、千夏は眠気に襲われてしまう。
どれだけ時間が立ったろうか、気配を感じ眼を開けると西田だが立っていた。
彼は明日には尊が退院出来ることになる筈だからもう大丈夫だと千夏に告げた。
気がつくと、病院の誰かの配慮だろう、千夏の肩と膝には毛布が掛けられている。
時計を見ると午前一時を回っている。
明日しろ退院が近いなら、尊の着る物や何かを準備しなくてはならない、千夏は家に帰ることにした。
朝が来た。
九時過ぎに、千夏は病院へ連絡を入れ、尊が今日退院出来るのかを確認したのだ。
十時を過ぎた頃に医師からの指示があるので、そこで退院の日時が決まると告げられた。
尊のための買物を済ませてから病院に行けばいいと思い家を出た、空の青さが眼に沁みるようで二人の未来は明るいと心が浮き立つのを感じた。
もう直ぐ、正午という頃に千夏は病院に到着した。
病室に向かう、そして扉を開けた瞬間、我が眼を疑った。
そこに尊の姿は無く、昨日尊が横になっていたベッドは、蛻の殻だった。
慌てて受付へ急ぎ、入院している小田尊は何故病室に居ないのかを尋ねた。
「あぁ、朝にお電話いただいた方ですね、小田さんはついさっき退院されましたよ、坂井様ですよね、これを預かっています」
そして千夏に紙片を手渡した。
見ると、千夏様詳細はメールしますと書かれている。
携帯を確認すると、一件のメールが届いている。
そこに、尊が退院したことと、何故連絡をしなかったかが記してあった。
千夏へ。
いろいろ心配をかけてすまない。
撃たれて路上に倒れている間、病院で意識が回復してから、ずっと君のことばかりを考えていました。
君との生活を夢見て、人並みの幸福を感じたい。
十四歳のあの日、君が四谷駅で降りてしまったあの時と現在を繋ぎ合わせて今度こそ、君を離さないと決めていました。
しかし、それは私の勝手な
考えなんだという事に気がつきました。
君への想いを募らせれば募らせるほど、君を危険な目にあわせてしまうという事に気がつきました。
私は君と暮らしたいと思った訳ではありません、君と穏やかに平和に暮らしたかったのです。
今回の銃撃事件はまだ誰の仕業か判りません、これで終わりかもしれない、まだ次が有るのかもしれないる穏やかな暮らしとは思えない生活を毎年歳老いて行く二人で進めていくのは、辛過ぎることです。
君を幸せにする事が出来ない、それは私の気持ちに反します。
その原因が私にすべて有るのなら、それを排除するしかないと判断しました。
貴女の知らない場所へ行きます。
本当にこれ迄の間、私は幸せでした。
ありがとうちーちゃん。
十四歳の、あの日の四谷駅に戻ります。
千夏の眼から涙が溢れている、少しも納得など出来るものではなかった。
尊の携帯を鳴らしたが、おかけになった電話は使われていないと言うメッセージが流れるだけだった。
千夏はどうやって家に戻ったのか、まったく記憶していない、気がつくと家の玄関の前に立っていた。
眠りについたのか眠らなかったのかも解らぬうちに朝を迎えた。
千夏は、今日一日がどんな一日なるのか憂鬱だった。
そして、姿を消してしまった尊は本当にもう帰って来ないのだろうか、信じられなかった。
昼過ぎに、徳田が顔を見せに来た。
徳田は千夏に尋ねた。
「いったい尊は何を考えているんだ、俺は二人が結婚するとばかり思っていたんだよね、それが急に尊が姿を消してしまう、さっぱりわからないよ」
徳田は自分の気持ちを千夏にぶつけた。
中学時代、自分も千夏が好きだった。
神楽坂へ戻って来たことも
知っていたし、離婚したことも知っていたが、なにもしないでいた、そのうちに尊が戻って来た、馬鹿な俺は、尊に向かって言っちまった、千夏の事が気になるなら、調べてもいいとそんな余計なことを言う必要などないのに、二人が上手く行けばなどと余計なことを言ってしまい、自分が千夏と尊の仲を取り持った事になってしまった。
登校の度に二人の背中を見せられた中学時代、それがまたこの歳で始まって辛かったけど、千夏が幸せならそれでいいと腹を決めていたのに、まったくどうしたというのだろう。
「私にも、さっぱり判らないの、撃たれた日もその前に神楽坂に戻ったって連絡をくれたの」
千夏は、死ぬまでの時間が自分達にどれだけ在るのか知らないが、尊と最期まで生きていくつもりだったし、
尊も同じ気持ちだったはず、
自分は生きている限り、尊を待ち続けると覚悟を語った。
聞いていた徳田は、自分も千夏を守るために出来る事はすべてやり続ける覚悟だと言う。
そして二人は沈黙する。
神楽坂に尊の姿はない。
この街に、小田尊の姿は無い。
その頃、小田尊は四谷駅のホームにいた。
五十年以上の時間が経っている、駅の形も変化していた。
改札口には駅員がいた。
今、そこにSuicaをかざし人が通り抜ける。
時代は、変わってしまった。
生きているうちに此処へ戻る事は無い。
神楽坂へ帰ることも、千夏
の家の玄関ベルを鳴らす事はもう無いのだ。
佳作座もなくなった街へ尊が戻って来る事は無い。
駅のベンチに腰掛け、つぶやく様に歌っている。
中学時代に千夏と歌った唄、
PPMの虹と共に消えた恋を歌っている。
了。