気がつくと、時間は進んでいた。
少し千夏はおどろいた。
怖いと思ったことや、実感の湧かないこと、尊の話には今日迄、知らないでいたことが多かった。
それを聞くことは苦痛ではなく、むしろ過去の世界にいた小田尊という人間が自分の生きている空間に存在していることが感じられて千夏はうれしかった。
今、私の前に腰掛けて話ているこの人は、何十年という時間をかけて、私の処へ帰って来てくれたんだと思えた。
長い時間をかけて私を助ける為にこの人は神楽坂へ帰って来てくれたんだ。
私のために、再び手を汚してくれたんだ。
あとは、この繋がった関係をどうしようと思っているのかを、千夏は知りたかった。
「ねぇ尊さん、もうひとつ聞いていい」
尊は千夏の眼を見た。
その表情はもちろんと言っているようだった。
「何が聞きたいの」
そう尊に聞かれ最初の言葉が思い浮かばない。
気がつくと、自分の考えたものとは違う話を始めている。
でもそれが彼女の、正直な気持ちだったのかも知れない。
千夏は中学時代、小田尊に恋をした。
これが初恋だった。
学校中で人気者の尊を自分の初恋の相手に選び、尊も同じ気持ちでいてくれた事が彼女は嬉しかった。
だからといって、このまま流れに任せていればいいという訳にはいかない。
尊は実際にはどう思っているのだろう。
お互に相手を思ってはいても、二人に残された生命の時間は長くはない、その時がいつかも判らないけれど。
千夏は、不安な思いに駆られ、もう尊に聞くしかない
あれこれ考えてみても、尊の心の中は解らない。
「尊君、教えて欲しいんだけど、あなた私達のこれからを、どう考えてるの」
尊はしばらく黙っていたが、千夏の質問に真剣に答え始めた。
「これからをどおするかって言われても、特別な事は考えてない、高齢化社会が進んでいると言っても、俺達が還暦どころか古希を迎えた年寄りだという現実は否定出来ない、その二人の未来をイメージするのって
難しい」
尊は、自分の心に仕舞っていた千夏に対する気持ちを話した。
朝の電車の中で千夏を最後に見てから、永い時間が過ぎた。
その間に多勢の女性達と出逢い、関わりを持って来た。
永い年月の中で、千夏を忘れたことが無いと言ったら嘘になるだろう。
ただ、それが千夏を忘れてしまったことにはならない。
一度だって千夏の存在を忘れたことなど無い。
そして、一度も千夏のことを忘れないでいたことが無い。
それは、千夏も同じだろう。
だから、人を愛し結婚をして、子供を産んだのだ。
夫となった人と旅行に行き、
映画を観て、着飾って食事もしただろう。
結婚を意識した男のために、
長い時間をかけてネクタイを選んだはずだ。
その時に千夏の心の中には
小田尊は、いなかったはず。
その時間の出来事をお互いに責めることなど出来はしない。
牢獄の中で千夏の夢を見た尊も、仁和会の幹部として
生きていた時に千夏を思い出していたりはしなかった。
千夏を大切に思っている今は、その思いに嘘はない。
だからと言って、その思いを形にすることが、今の尊には出来ない。
それが歳をとるということなのだ。
恋をして、その昂ぶる思いを相手にぶつけて、おたがいに快楽を得る。
それが普通の大人の恋愛の終着点だろう。
しかし、恋愛感情を持った者同士が高齢者の場合にはどうなのだろうか。
個人差はもちろんあるだろう、しかし同じような思いをしている高齢者の男と女は多いはずだ。
心の若い高齢者、身体の老いた高齢者。
崩れてしまったバランスに戸惑い、苦悩する人は多い
はずである。