忘れて来た約束を捜して 最後の質問 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

夜が近づいている神楽坂は相変わらず人で溢れていた。

千夏が見つけた喫茶店から彼女の家まで時間にすれば十数分だろう。

ここを右に曲がれば、という処まで来た時だった。「お酒の肴、何か買う」と

千夏が尊に尋ねた。

「いやいや、そんなに気を遣わないでいいから」遠慮がちに応える尊に、彼女はそうではなく、酒のあてになるようなものが家 に何も無いからだと答えて、急ぎ足で家に向かい、玄関の鍵を開けた。

慌ただしく尊を中へ通すと、

近くで何か見繕って来るからと言って外へ出て行く。

家の中にひとり残された尊はリビングのソファに腰を降ろし、部屋を眺めていた。

中学時代毎日、千夏と電話していた頃と同じ場所だったが、この家は改築されているのだろう、家が新しかった。

あの頃は電話中に、まるで

BGMのように琴の旋律が、流れていて、尊はそれを思い出した。

千夏の母親はたしか、琴の講師をしていた。

二年から三年に進級する少し前、卒業を控えた三年生の誰かが、新宿の繁華街で

同じ年代の少年から金銭を奪ったことがあった。

その少年が知り合いの高校生に告げ口し、そこから話は騒動へと発展した。

卒業前で授業も無い三年生は学校に居なかったが高校生の集団がやって来たのだ。

今となっては、懐かしい話だが、十四歳になろうとしていた尊には、学校の仲間を護らなくてはならない緊急事態だった。

彼は三年生の先輩達の家を次々と回って学校に高校生達がやって来たことを伝えた。

不良高校生達が教師の登場

でる帰ろうとした時に捨て台詞を吐いたことが忘れられなかったからだ。

高校生達は間違いなくこう言った。

「近いうちに必ず来るからな」

その言葉が尊の耳に残って

いたからだ。

尊は必死になって三年生達を説得した。

しかし、尊の言葉は三年生達には伝わらなかった。

「俺は新宿に行ってない」

尊が回った三年生の誰もが

同じようなことを言い、尊の話に耳を貸そうとはしなかった。

尊はこの事を解決する為に三中の卒業生達に声を掛けた。

もちろん、不良生徒の肩書きを貼られている先輩を選んでのことだった。

そして一人、リーダー格の先輩が尊の話を聞いてくれた。

彼の号令で数十人の高校生が集結することになった。

尊の心配は解消した。

それから数日後、三年生達を捜している高校生の集団が、中学へ来ることが判った。

卒業生のリーダーに報告をすると、彼は中学の周囲に仲間達を張り込ませる。

あとは待つだけだ。

尊は千夏が騒動に巻き込まれることだけが心配だった。

いよいよ明日という日の夜、

彼は千夏に電話をした。

明日の放課後は学校に残らないで卓球部の練習も休みにして帰宅した方がいいと伝えたかったのだが電話には千夏の母が出た。

尊は、初めて話す母親との会話に緊張して、今となっては何を話したのかを憶えてはいない。

ただ千夏の母親が尊に言った一言が今も耳に残っている。

「尊君、自分の為に生きていくのよ。どうかそうして下さいね」

その時はその言葉の意味が判らなかった。

しかし、その後の人生を考えた時に、千夏の母親には彼のことが見えていたのかも知れない。

小田尊は千夏の母親に会ったことがない。

電話でさえ二、三回のことだったはず。

それを考えると、洞察力の鋭さに驚いてしまうのだがその人も今はこの家にいない。

玄関の扉が開く気配を感じ千夏が戻って来たのを知る。

「お待たせして、ごめんなさい」

リビングのドアが開き買い物袋を手に千夏が入ってきた。

彼女が買ってきた物を皿に盛り、酒の肴にしてまた話が始まった。

喫茶店の時と違い、此処では千夏の質問に答える形になった。

彼女の最初の質問は、何故仁和会に入ったのかだった。

尊は、少し間を置いてからそれについて話し始める。

「仁和会に入った一番の理由は、執行猶予の付かなかったことで懲役に行かなくてはならなかった事が総ての始まりだった。私が組員ではないことが明確になって裁判所の対応も少し変わって模範囚だったこともあり三年ほどで出られはしたものの、合格していた大学も駄目になり、中にいる間

将来どうしようかと悩んでいた時、何回も面会や差し入れをしてくれた会長に気持ちが動いて来て、出所してその足で会長に会いに行ったんだ」

佐々木会長は自分を助ける為に大変な苦労をかけさせてしまった事を謝罪し、今後の生活や大学へ進学を望むならそれに係る費用は全て持つ、毎月の生活費も、

更に就職先、あるいは起業する場合にはその費用も全部こちらで出すと約束してくれた。

尊は、数日考えた後、会長に、自分の意志を伝えた。

「それで、仁和会へ行こうと決めたの」

「そうなんだ、それだけじゃなくてヤクザになることを決めてしまった」

尊の話では、仁和会へ行くと決めた一番の理由は、何もすることがなくなってしまい、前科がついてから周囲の人の眼が気になって仕方なく、何処かで働くといっても、中々上手くいかない。

もう自分にはこの世界しか無いのかも知れない。

あの頃の自分には、それしか考えることが出来なかった。

自嘲的な笑みを浮かべ、尊は千夏の注いでくれた酒を呑み干した。

千夏は、尊が帰る道を失くした子犬のように思えてきて、尊の肩に手を回した。

そのあと、今日に至る迄のあれこれを尋ね、尊はひとつひとつに判りやすく答えた。

千夏は最後まで残していた、

質問をすることに決めた。