「おはよう、徳ちゃん」
「早いじゃないか、何かあるのか」
「別に何もないが、陽気もいいから、早起きしてみたよ」
時計の針は九時を少し過ぎたところだった。
「珈琲なら出せるよ」
「中の方が寒いね、ドア開けとくか」
尊は、ドアを閉めずにカウンターに腰を下ろし、徳田の入れた珈琲を啜る。
「上手くいかなかったろ」
「そうなんだ、すまない」
「好き勝手やって来て、今度カタギになりましたから皆さん宜しくって言ったって、虫が良すぎる。誰も納得しないだろう。
徳ちゃんの謝ることじゃないよ。
長年の垢は簡単には取れない」
尊は煙草を取り出し、火を点けた。
「俺が、少し簡単に考えてたみたいだなあ」
尊はお濠の土手の方を歩いて来ると徳田に告げて腰を上げた。
「今日も昼飯頼むよ」
「わかった」
尊がドアの外へ出るのを見届けると、徳田も厨房の中へ入った。
酒井千夏の家は、徳田の店から一粁、ほどの距離にある。
不審な男達の突然の訪問から一日が過ぎた。
二人が帰って直ぐに、千夏は離婚した桑嶋の携帯を鳴らしたが繋がらなかった。
病院や桑嶋の家に連絡することも考えたが、弁護士を名乗る男に、桑嶋が家族や病院の人間達に知られることを強く嫌がっていると聞かされていた為に連絡はしていない。
弁護士だという男は、桑嶋が無事で千夏と連絡をとりたがっていることも話していた。
自分の方から連絡しづらくても着信履歴を見れば、返信はしやすいはずだ。
それに悠長なことを言っていられる状況ではないだろう。
残る時間は、あと一日。
警察に連絡をするしかないと千夏が思いを固めた時、電話が鳴った。
「坂井でございます」
「もしもし、俺だ。心配かけてすまんない」
桑嶋の声だった。
「稔さん、稔さんなの、何があったの」
千夏は、気持ちを抑えて、桑嶋の話を聴く。
桑嶋は、事の発端になる女性問題についてはかなり省略していたが、とおに還暦過ぎた男の女性問題など千夏には興味もなかった。
桑嶋は、仕掛けられたという言葉を何度となく使った。
親しくしている友人の娘と男女の関係など思いもしない事だったが、友人の家に招待され、泊まった時に、あまり酒に強くない彼にしては多い量の酒を呑んで眠り込み、翌朝眼を覚ますと隣に友人の娘が寝ていた。
彼女は、取り乱すこともなく、むしろ悦んでいる様子だった。
桑嶋も若く美しい娘に好意を寄せられた事に悪い気はしなかった。
友人のことを思うと穏やかではいられなかったが欲望に敗け娘との関係を続ける様になったのだと話した。
千夏は、話が一区切りしたところで、桑嶋に尋ねた。
「一億円も請求される様なトラブルって何なの」
「彼女と逢う時は人目に気をつけるようにしてはいたんだ、彼女がグラビアやテレビに出ている芸能人ということも有ってね」
ここのところは、村上の話と一致している。
「ところがある時、写真を撮られてしまったんだ」
桑嶋は、その事で彼女が、芸能活動に支障をきたして、いろいろなチャンスや決まっている仕事が駄目になってしまう。
解決する為には相当な費用が掛かる。
撮られた写真が週刊誌などに載れば、病院にも迷惑をかけてしまう。
村上という弁護士が言うには、事が表沙汰にならないように解決するには一億円くらいはかかると言っている。
「一億円、大丈夫なの」
「無理だよ、表に出せない金を一億円なんて出来ないよ」
「やっぱり奥さんに正直に話した方がいいと思うわ、私に如何にか出来る金額じゃないし」
桑嶋の溜め息が受話器の向こうから聴こえて来る。
「出来ないよ、妻には言えない、こんな事」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、奥さんや病院の理事長に相談すれば、預金だって銀行だって不動産だって、他にもいろいろ方法も見つかるでしょう。あなたが体裁が悪いと思っているなら、それは自分の撒いた種じゃない」
千夏は腹が立って来た。
桑嶋は、年齢や立場も弁えずに若い女性に溺れ、窮地に立たされれば、家族に知られることを怖れ、病院の経営に支障をきたす事を心配している。
この状況でも、自分の保身ばかりを考えている。
その解決を、離婚して久しい私に頼む、どう考えてみても筋違が違う。
「相談なんだが、時間さえ有れば私も金は揃えられる、少しの間だけ立て替えて貰えないだろうか、君の家と土地を担保にすれば、一億円ぐらいにはなるはずだ。何とか助けてくれないか」
「稔さん、自分の言ってること解ってる」
大変なのは判るけど、私には関係ない事よ、仮にあなたの奥さんや、そちらの方達が精一杯の努力をして、それでも足りないんだと言うなら、私も協力するわよ、でもあなたの言ってることは、図々しいだけじゃなくて私をバカにしてるわよ」
桑嶋は慌てて何か言っていたが、千夏は電話を切った。
身体が震えている。
さっきまでとは違う憤りによるものだった。
また電話が鳴る。
千夏はそのままにしていたが、電話はいつまでも鳴り続ける。
困り果てた桑嶋が、なりふり構わずにかけてきているのだろう。
根負けした千夏が受話器を取ると、電話の主は桑嶋ではなかった。
「もしもし、坂井さんですか」
聴きなれない声だ。
「徳田です。憶えていますか」
憤った心が、潮の引くように穏やかになっていくのが判った。
「三中で、同期だった徳田ですけど、解りませんか」
千夏の脳裏に通学路を賑やかに歩く中学生の一団が浮かんだ。
その中に徳田がいる。
そして隣りに笑顔の彼がいた。
小田 尊だった。
徳田は酒井千夏に話したかった用件も忘れ、五○年も昔の想い出に浸るように、いつまでも話し続けた。
千夏も徳田からの電話があった直前迄の憤りをすっかり忘れて、中学生時代の懐かしい想い出の中にいた。
「ところで、突然電話したのは伝えたいことが有ったんです。すっかり無駄話をしちゃいました。すみません」
「とんでもないです。懐かしいお話が出来て、楽しかったわ」
人間は歳をとると、声が低くなるというが、電話から聴こえてくる千夏の声は、あの頃と変わったようには感じられない。
徳田は、二年と三年の時に千夏と同じクラスで席も近い事が多く、クラスを幾つかの班に分けて行う理科の実験や技術家庭科の授業では決まって一緒の班だった。
学校という所は、どのクラスにも美人だと評判の生徒が居て、生徒達があれこれ噂にしたりしたものだが、千夏は学校でも評判の美しい生徒だった。
「実は、小田が・・小田尊ですが、判りますよね」
「オダ・・小田君」
「そうです、小田尊です。」
「懐かしい名前ね、尊君お元気ですか」
「その尊のことで連絡したんです」
「そうなんですか、どんなお話でしょう」
「それなんですが、だいぶ長話になったので、もしよかったら会って話させて貰えませんか」
徳田の言う意味が千夏にはよくわからなかったが、小田尊のことをまた話題に出来ると思うと、思春期の少女のように胸がときめいた。
千夏は翌日の午後、徳田と会う約束をして電話を切った。
場所は、徳田の経営する《SAKA》だ。
千夏は、娘の美乃里が十五歳の時に離婚し、実家に戻った。
千夏は四〇歳だった。
それから二五年近くが過ぎている。
幸い両親に助けられ、子供と二人の生活は経済的に苦労はなかったが、出戻りの身に今日までいろいろな事が当然あった。
母親に子供を預けて勤めに出たが、一年程で父親の不動産業を手伝う様になり、四五歳の時に父親が急逝すると、亡くなった父親の跡を継いだ。
社長業にも慣れた頃、母が逝き、千夏は娘の美乃里と二人になった。
必死になって会社経営に取組み、母親としても精一杯の愛情を娘に注いだ。
その娘も、彼女が五十を過ぎた頃に嫁いで行った。
独りになった日から、時折寂しさが足元から迫り上がって来るのを感じることがある。
初めて経験する感覚だ。
地元の様子もよく判らない自分にも気付かされた。
会社の経営からも、退こうかと考え始めた頃だった。
離婚して久しい桑嶋に問題が起きたことを知らされ、怪しげな弁護士の訪問を受け、気が滅入ったところに徳田からの電話、千夏は徳田が地元で店をやっていることも知らなかった。
徳田からの電話があった翌日の午後二時過ぎに千夏は、《SAKA》を訪れた。
彼の言った通り、昼時のピークを過ぎたこの時間帯に店の中に客はまばらだった。
「いらっしゃい、昨日はとんだ長電話で失礼しました。市ケ谷三中で同級生だった徳田です」
店の奥から出て来た徳田は、目元や口元に僅かに面影を残してはいるものの、路ですれ違っても判らないほど風貌は変化していた。
それは自分も同じだろうと千夏は思ったが、「坂井さん変わらないなあ、若い」
徳田はそう言った。
たしかに社交辞令ではなかった。
肌の色艶、姿勢、雰囲気、どれを見ても、千夏は美しく若かった。
徳田に促された席に腰を下ろして、アイスコーヒーのストローに口をつけた。
「小田君、お元気なんですの」
徳田の眼を覗き込むように千夏が尋ねる。
「元気ですよ」
「そうですか、私ね高校の一年になったばかりの時だったと思うの、一度だけ飯田橋のホームで彼に会った事があるんです。それが最後だったですかね」
「千夏さんは、それから後の尊のことを何も知らないんですか」
「大学に入ったと言うのは、聞きましたけど、その後は、今どうしてらっしゃるの、もうお孫さんの二人や三人居るんでしょうね」
千夏は、嫁いだ先が厳格な開業医の家だったのと、桑嶋が結婚してすぐにカリフォルニアの病院に勤務することが決まり、三年間を米国で暮らした。
帰国してからの桑嶋は、父親が院長、その弟が理事長を務める桑嶋病院の副院長に収まった。
米国での三年間と帰国後の忙しさから、千夏は学生時代の友人達とは疎遠になっている。
「驚くかもしれないけど、尊は十八歳になってすぐに、暴力団同士の抗争に巻き込まれ、結果的に人を殺してしまったんです」
力強い何かにはじき飛ばされたような衝撃が千夏の身体を襲った。
徳田は、順を追って尊についてを話した。
運悪く対立抗争中の組の人間から襲撃されていた指定暴力団仁和会会長、佐々木鋼太郎を助けたことから、尊の人生は大きく変化した。
千夏に簡単に信じられる事ではなかった。
徳田は、その尊が長い刑期を終えて帰って来ていることとヤクザを辞めたことを話した。
長く重たい時間が続き、ため息と驚きの連続だった話に光明が見えた。
尊は罪を償い一般人になっている。
千夏が知っている小田尊は、陽気な性格でいつも彼の回りには男子生徒が集まっていて笑い声が絶えなかった。
いろいろなスポーツを得意として、その中でも脚の速さは群を抜いていた。
その尊が暴力団に入り、人を殺め刑務所に入り、千夏には信じられない事ばかりだった。
彼がどのような思いで生きて来たのかと思うと、その世界の人間に対して一般の人が感じる畏怖の思いは無かった。
それよりも本意ではない道を歩み罪を重ねた尊を不憫に思う気持ちが、胸いっぱいに拡がり、千夏は涙を浮かべていた。
「小田君は、今日も」
千夏が尋ねかけた時、チリンという音が鳴り、店のドアが開いた。
小田尊がそこにいた。