立ち上がった 千夏の前に、小田尊が立っていた。
白いポロシャツ、カーキ色のチノパンにスニーカー。
陽に焼けた顔。
変わらない雰囲気。
短かめの髪に白いものが目立つことや、目尻に刻まれた深い皺と下瞼の弛みが年月の長さを教えてくれている。
自分も同じだ。
「永く、本当に永くご無沙汰しました」
そういってから、頷くように尊は一礼した。
「ほんとに、ご無沙汰しました」
千夏は、次に言をうとした言葉を飲み込んだ。
お変わりありませんか?
こんな言葉を尊に言うべきではない。
彼は、千夏などが想像することさえ出来ないほど壮絶な人生を歩いて来たのだから。
穏やかに過ごした日など、一日としてなかったろう。
千夏は次の言葉に思いあぐねた。
「さあさあ、二人とも座って」
徳田に促されて二人は席に着いた。
千夏は徳田の電話で、小田尊の事で話があると言われていたが、本人に会えるとは思ってもいなかった。
その驚きを二人に告げると、徳田は悪戯っ子のように笑顔を浮かべながら、大袈裟に最敬礼した。
半世紀という時を過ぎての三人の語らいが始まった。
徳田は、この時間に水を差したくなかった。
二人は時を忘れて時間を取り戻したいという気持ちだろう。
彼も同じ気持ちだった。
静かに席をを立つと、厨房の隅で店の責任者に店を休みにすると伝え、夕方に来る予定のパートの女性にはメールで臨時休業することを伝えた。
店の玄関に《本日休業》の知らせも貼り出した。
尊も次第にほぐれてきた様子で、三人は時間の過ぎるのも忘れていた。
徳田は、店の中に彼等の青春時代に流行っていた曲をあれこれと流した。
グレープサウンズの曲。
ビートルズの曲。
ローリングストーンズの曲。
そしてP.P.M.の曲。
それらの曲が流れるたびに三人は中学時代や高校時代の忘れていたことを思い出した。
千夏の携帯がバッグの中で鳴った。
着信相手を確認する千夏、相手は元夫の桑島だった。
彼女の顔から笑みが消えた。
携帯の電源を切り、話の中へ戻ろうとする千夏だが、それまでの様にはいかない。
千夏の変化を徳田も尊も見逃さなかった「千夏さん、どうかしたの」
「いえ、別に・・・」
「別にって言ったって、携帯が鳴ってから様子が変じゃないか」
尊は黙っていたが、千夏の異変は徳田より早く感じ取っている。
「何か困ってるなら話してみてよ」
千夏は、徳田の問いかけに答える代わりに小さく溜め息を吐いた。
「俺達は、今日五○年ぶりに会った、五○年と言えば道ですれ違っても誰だか解らないくらいの時間だ、でも俺達はけして初対面じゃない、昔は毎日顔を合わせていたし、いろいろ相談しあったりした」
徳田は、話をしている自分が高揚していることに気がついていた。
彼には尊にも誰にも知られていない隠し事があった。
それは中学時代、彼も千夏に淡い恋心を懐いていたことだ。
徳田にとって坂井千夏は初恋の人だった。
千夏に告げた事はない。
一年が終わり、二年に進級した時に徳田は千夏と同じクラスになり、千夏を知った。
美しく可憐な千夏に、たちまち徳田の心は掴まれてしまった。
密かに想いを募らせていた頃千夏は小田尊のことが好きという噂が学校内に流れ、尊も千夏が好きで二人は両想いだということになっていった。
噂は既成の事実となり、学校中が注目することになった。
徳田の初恋は、その想いを相手に知られることもなく終わりをつげた。
毎日の通学路を仲良く歩く尊と千夏。
少し離れた後ろを二人の背中を眺めて歩く徳田の心中は穏やかではなかった。
それさえも今となっては懐かしい。
千夏は徳田の言葉が素直に嬉しかった。
だからと言って久々に再会した子供の頃の友人にいきなり身内の恥になるような話を聴いてもらう訳にはいかない。
ここは徳田の真心だけ受け取っておこう、そう胸の中で決めた時だった。
「ちーちゃん、何があったか知らないけど、長い時間一緒に居たとか、身近な存在だとか、血の繋がりが有るとか無いとか、そんなことに囚われることなんか無いんじゃないかな、一番大事なのは人の縁じゃない。
口幅ったいこというようであれだけど、今あなたのことを一番心配してくれる人の気持ちを大切にして、困ってることが有るなら相談してみたらいいじゃないか」
尊の言葉が千夏の胸を射た。
内容もそうだったが、《ちーちゃん》と呼ばれたことが嬉しかった。
それは尊が二人きりの時にだけ千夏を呼ぶ呼び方だった。
「実は、私の離婚れた主人が・・・」
千夏は自分に突然降って湧いたような出来事を詳しく話した。
話の内容が大体二人に伝わった時、「それって、君には悪いけど元旦那と弁護士はグルだと思うな」
「やっぱり、そうなんでしょうか」
「断定は出来ないけどね十中八九は間違い無いでしょう」
尊が尋ねる。
「弁護士は名刺を出した」
「貰いました」
千夏はバッグの中から名刺を出した。
テーブルに置かれた名刺を手に取った尊は千夏に尋ねる。
「旦那さん身柄をとられているって言うの」
「ええ、そう言ってました、弁護士も本人も」
「これは、単にグルということじゃあ無いと思うよ、一緒に事を運んでいるようで、弱身の尻尾は握っているぞ、みたいな感じでいるんだろうなよくやる手だよ」
尊の予測は、多分的を射ているのだろう、という事は裏に何らかの反社会的勢力が介在しているということなのか、千夏は胃の辺りに軽い嘔吐感を感じた。
「期日は今日だという事になっているんでしょ、期日はあまり心配しなくても大丈夫だろうと思う。
相手は病院や旦那を失脚させることが目的じゃない、一億円が目的だ。
一億の現金がそんなに簡単に揃わないことは、向こうもよく判ってる、催促はキツくなるだろうけど、旦那は殺されたりはしない、心配しないで警察に相談するのが一番いいけど、そうもいかないんでしょうから」
尊は話を続けた。
中途半端な立場の桑島稔も、社会的に失墜したくはない、仕掛けた側のモデルも、どの程度の位置にいるのかは判らないが芸能界に残っていたいはず、そうなるとマスコミにも知られたくはない。
警察に話が行けばやがてマスコミの知るところになる。
表沙汰になると困るのは桑島より仕掛けた相手だ。
だから、緩急をつけながら仕掛けてくる。
痛みを覚悟し毅然とした対応をすれば勝機は高いが裏で仕掛けている人間達は、面子を重んじる。
全ての計画が失敗した場合、いわゆるオトシマエを着ける為に暴力的な行為に走る事はある。
その手前で決着をつけたいのは相手も同じだ。
「この名刺、預かっていい」
千夏が頷くと、「旦那さんを無事に帰すから、心配しないで」尊はそう言った。
千夏は、離婚れた桑島を尊が旦那と呼ぶことが嫌だったが、そんな事にこだわっている場合ではない。
千夏は尊に深々と頭を下げ、尊は照れ臭そうに微笑んだ。
長い空白の時間が埋まっていく。
何故か千夏は幸せな気持ちに包まれていた。