このブログは、数年前に書いたものに、加筆・訂正したものです。読んだことあるように感じる方もいらっしゃると思いますが、読んでみてください。
四谷三丁目から津ノ森坂をくだった処にその店はあった。
小さな間口ではあったが、店内は洒落た和風の落ち着ける処だった。
2003年。
たしか三月のことだったと思う。
その数日前、スポーツ各誌は新日本プロレス取締役、永島勝司氏が退職したことを報じていた。
私は、永島氏に連絡をし、長年の労をねぎらい、久方ぶりの再会を約束した。
そして電話の切りぎわに、新日本を出て何をやるのかを尋ね、一歩踏み込んで『新団体をやるのですか?』と尋ねてみた。
永島氏は、いやぁヤラないヤラないと否定した。
三日後の夕刻に会う約束をして電話を切った。
プロレス界からボロボロになって溢れ墜ちて三年(当時)、何とか社会に復帰して、人並みの生活を取り戻すことが出来た私には、永島勝司氏がどんなか心持ちでいるのかが、解るような気がした。
私は、数日後に会う約束をし、電話を切った。
かと言っても、その時の私に特段の計画があった訳ではない。
酒でも振る舞って思い出話でも、と思っただけのことだった。
多分、永島氏もそんな感じだったと思う。
人には必ず敵と味方がいる。
精力的に動いている人ほど、その周囲は賛否両論、賑やかなものである。
氏の外野席も例外なく賑やかだった。
私は噂話などの風聞を人物評価の柱には据えない。
私が生きてきた道すがら、身につけた人生哲学のようなものである。
その人の為人を見て感じたことで評価をしてきたつもりである。
A・猪木のは懐刀、平成の仕掛人等の氏を飾る形容詞の対極に、金や女にまつわる醜聞めいたものも聞こえてきてはいた。私は、そのいずれの人物評価も鵜呑みにはしなかった。
何故かと言えばもちろん、理由がある。
永島氏は少なくとも《レッスル夢ファクトリー》が存在していた時の『恩人』である。
私は、永島氏に好印象を持っていたし、今現在も当時を振り返ると感謝の思いはある。
それだけ私達の団体にとって、新日本プロレスの永島勝司氏の存在は大きなものだった。
数日後の再会は日が西に傾く頃を合図に、河岸を変えることになり、冒頭の飲み屋の暖簾をくぐった。
世間話から始まった久方ぶりの語らいは、酒量が増すに従って、プロレス界の話題へと移り、永島氏の腹の中が見え隠れするようになってきた。
『アントニオ猪木に一泡吹かせたい。』
『早晩、長州力も新日本を辞めるはずだ。』
饒舌な氏の言葉が止まり、少しの沈黙のあと、私は氏に伝えた。
『俺、まだリング持ってますよ。』
私のこの言葉に永島氏は反応した。
テーブルに盃を置くと、おどろきと何かに対する踏ん切りの無い混ぜしたような、視線を私に向けた。
酔いのせいで、真っ赤に充血した眼に、正気が戻っていた。
《以下次回》