昭和世代が紡いだ平成プロレス〜格闘夢工場 12 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    前回の最後で、クォリティについて書いた。
もちろん、当時のレスラー達の身体能力を始めとした資質のことだ。

乱立するインディ団体の選手には、メジャーでも充分に通用する者も居たが、ほとんどの場合が一見してプロレスラーと認識することが難しい体躯と技量の者が少なからずいた。

選手のクォリティ、それは旗揚げ以降の私のテーマでもあった。

目立ったトラブルもなく、熊谷大会は終了した。

集客を考えると、けして成功とは言えない。
しかし、内容的に現状では及第点だと、私は自己採点していた。

旗揚げ二連戦を終えると、桜の季節が始まっていた。

そして、初の後楽園ホールへ。



この日、私が一番驚いたことは、ホールの有る階まで続いている階段にコアなファンが列を作ることは知っていたが、一階からホールの階まで列んでいるプロレスファンの若者達の行列の中から、《夢を継ぐ人》の旋律が流れてきた事だった。

やっと携帯電話が小型化されてきた時代。

ビジネスマンや若者達に加速度を増して普及していた頃。
もちろん、スマートフォンなど言葉も生まれていない時代だった。

まだ、ウォークマンの最終形が存在していたのではなかったか。

彼らは、テープに録音した《夢を継ぐ人》を携帯出来るカセットデッキのようなもので聴いていたのかもしれない。

寡黙な若者達の列から、滲み出す《夢を継ぐ人》。

嬉しかった。

マスコミには良くは書かれなかったけれど、プロレスファンは認知してくれているのかと思うと、ただ嬉しかった。

居てもいいんだ。

居ても構わないんだ。

ここに居ていいんだ。

この場所に、私達の居場所はあるんだ。

そう思うと、こみ上げる嬉しさが身体の奥から湧き出してきた。

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そして、初の後楽園ホール大会の開始時間が来た。

《夢を継ぐ人》が、ついにホールに響き渡り、加藤リングアナのよく通る声に促されて、《夢戦士》がリングに登場した。

これが、この《聖地》後楽園ホール大会が、ある意味で、レッスル夢ファクトリーの旗揚げ戦なのだ。

私は、心地よい緊張感に包まれていた。



これを書き始めた先週の始め、《死神》選手から電話があった。

悲しい、悔しい連絡だった。

次回に追悼の意味を込めて、その《死神》からの電話の内容を書こうと思う。